麻雀のプロなのは秘密
2008年に父が亡くなった時、ふと気づいた。父の兄弟は父が亡くなると、一人しか残っていないこと。私の父方も母方も昔の大家族で6人以上の兄弟姉妹がいたが、母方はまだあまり亡くなってなかった。
父方は戦争中貧乏して大変だったが、母方は比較的裕福だったと聞いていたので、若い頃の生活というのは、その後の人生にまで影響を及ぼすのだと思った。
当時、母方はまだみんな存命だったような気がしたのでそう言うと、
「いや、タカシは亡くなった」
と教えてくれた。タカシおじさんは、母の弟で、兄弟姉妹の中でかなり若い方だったのに、酒を飲み過ぎたりして、あまり幸福とは言えない晩年だったようだ。
「そーいえば、タカシおじさん、昔、麻雀のプロだったと言ってたな」
と思いだし、調べたところ、『麻雀放浪記』の阿佐田哲也と週刊大衆が音頭を取って昭和45年に開催された第一回の麻雀名人位を獲得して、本も出している、わりと業界内では歴史上の人物だったということがわかった。
なに?
タカシおじさん、そんなに偉かったの?
と、母方の親戚はちょっとした騒ぎに。
つまり、麻雀というのが、昔の感覚だと裏稼業のようで、ばーさん(母の母)がとても嫌がっていたらしく、タカシおじさんの偉業を親戚中が全く、ひとっつも知らなかったんです。
第一回 麻雀名人位の獲得
麻雀プロとして高名な小島武夫が、ご自身が参加した、というか、実は麻雀名人戦は、小島プロを勝者にして麻雀タレントとして売り出すことを意図して開催されたようですが、その第一回&青山敬について思い出を語っています。
下記ホームページによれば、
「リーチ」を生み出して、麻雀を日本独特に進化させた天野大三(牌棋院)は、自分の弟子の青山敬を、
「牌棋院の中では、私を含めてこの男の右に出る技術を持った者は、現在おりません」
とまで賞賛したそうです。青山敬は、牌棋院で無敗(全てプラス)という記録を打ち立て、当時としては唯一人、七段を許されていた打ち手だそうです。
この天野さんという方が、タカシおじさんの実家(北区滝野川)の近所にお住まいだったか、牌棋院を開いてらっしゃったのかだそうで、そんな関係でタカシおじさんは牌棋院に通っていたそうです。
名人位獲得から一年ほどで引退
というわけで、タカシおじさん、めでたく第一回名人位についたのですが、一年ほどで麻雀のプロをやめてしまいます。
上記ホームページの筆者である福地誠が、
「その一年後に青山は引退してしまう。すぐに引退してしまうのなら、なぜ出場してきたのか。阿佐田ならずとも、そんな文句をいいたくなる。タイトルを取ったのなら、その役回りを通じて、見せる麻雀の確立に尽力してほしい。」
と書かれてますが、その通りですね。
そして、タカシおじさんは、本当は、引退なんかしたくなかったんぢゃないか、と思います。
小島武夫や阿佐田哲也のように、語りが上手くて、明朗で、ハッタリを効かすようなタイプではなく、何となく奥ゆかしい感じだったので、タレントに向いていたかどうかは別としてね。
ばーさん(おじさんの母)が非常にうるさく言って、やめさせて、家業の文房具店を継がせたようなんです。
ばーさんは、いわゆる「後家の頑張り」で、文房具店を守っていました。
タカシおじさんの実家(私の母の実家)は、戦前まで万年筆製造業を営んでいて、50人ほどの従業員を使っていたそうで、ある時期は「セーラー万年筆」と同規模くらいの商売をやっていたそうなんです。
その関係で、「最後の万年筆職人」と呼ばれた土田修一は、タカシおじさんの義理の兄(姉の夫)です。
で、この万年筆製造業、どーも、私のじーさんが傾かせたんぢゃないか、と。
起業したのは、私のじーさんの叔父さんだそうで、その叔父さんに子どもがなかったため、岡山からじーさんが呼ばれたんだ、と。
じーさんは岡山の真庭市にあった美作勝山藩の出で、「青山」っつーと、家康の父親の松平広忠の代から記録にあらわれる三河以来の徳川家譜代の姓で、江戸時代ぢゃわりと名族の姓ですから、江戸時代はそれなりに偉かった家らしいです。
で、鳩山一郎の家系(鳩山威一郎、鳩山由紀夫、鳩山邦夫)が、もともと美作勝山藩の出なんですが、鳩山一郎のことを
「あれは足軽の家の出ぢゃ」
なんて、からかうようなことを言っていたそうです。
調べてみますと、鳩山家というのは確かに美作勝山藩の出で、鳩山由紀夫・邦夫 兄弟の曾じいさんの鳩山和夫が偉い人で、勉学を修めて開成学校(のち東京大学)を卒業して一族繁栄の基礎を作ったわけですが、そんながんばって実力で立身出世した偉い人を捕まえて「足軽の家の出」なんて言ってる時代錯誤の愚かな精神ぢゃ、ビジネスなんてうまくいくはずないですね(T-T)
ということで、万年筆製造業がだんだん上手くいかなくてなって、ちなみに私の母は「戦争のせいだ」って言ってますが、セーラー万年筆にだって戦争の世は訪れたわけですから、上手くいかなかったのは、じーさんにビジネスの才能がなかったからでしょう。
そんなこんなで戦後は文房具屋をやっていたわけです。
大切な何かを手放してはいけない〜タカシおじさんのあやまち
そーゆー、ま、ある意味、由緒正しい文房具屋なので、後妻であるばーさんは、まさしく「後家の頑張り」で、文房具店を守ってたわけですね。
その由緒正しい文房具屋をタカシおじさんに継がせたい、と。
私の子どもの頃の印象ですが、タカシおじさんはどっちかというと気が強い方ではなく、線の細い感じで、兄弟姉妹の中では歳がとても下の方の男子だったので、ばーさんが可愛がってたらしいんです。
だから、親に逆らうというのは、ちょっと難しかったようで、せっかくの麻雀の道を捨てて文房具屋を継いじゃうわけです。
しかし、それは間違いですね。
これは後から見てるから言うんぢゃなく、当時に私が相談を受けていても、「間違ってる」と断言しましたね。私の母も同じようなこと言ってばーさんを説得したそうですが。
ばーさんは、前途も実力もあって、さらに実績さえ勝ち取った若者に、斜陽に突入していく業界である文房具店なんかやらせるべきではありませんでした。
タカシおじさんは、自分の才能あるものに、しかも希有なことに、その才能が実証されたわけですから、親兄弟がなんと言おうと、それに賭けて、自身の未来を切り拓くべきでした。
思い出してみると、タカシおじさんが麻雀名人位を獲得したのは、わたしが小学校1年に入るくらいの時で、ちょうどその頃、わたしの家は、東京から神奈川県に引っ越しました。
そんな区切りの時だからなのか、タカシおじさんの変化をよく覚えています。
麻雀名人位を獲得した前後は、ばーさんの家に時々しかいなくて、わりと良い身なりで、背広とかも着て、颯爽としていました。
麻雀のプロをやめて文房具屋を手伝い始めてからは、文房具屋の事務室で、くすんだ色のセーターかなんかでテレビでプロレスを面白くもなさそうに見ていた記憶があります。
あれは、自分の大切な何かを自分で手放した痛みに堪えていたんでしょうね。
先述しましたが、聞くところによれば、タカシおじさんの晩年は、酒を飲み過ぎたりして、あまり幸福とは言えなかったようです。故人の名誉もあるのであんまり書けないんですが。
さて、タカシおじさんから私たちが学ぶべきことは、誰がなんと言おうと、自分の大切な何かを手放してはいけない、ってことでしょう。その中に、夢や希望があるからです。夢や希望をなくした人間は、抜け殻になります。私は、タカシおじさんからそのことを学びました。