個人の寄付のみによる木造の立派な校舎
明治人は気宇が違うなー、と感じることがありせんか?
私が最初にそれを感じたのは、大昔、通っていた木造の立派な小学校が、昔の偉人が、自身の退職金を寄付して建てたものだ、という故事を知った時です。
私は東京都練馬区で生まれ育ったんですが、小学校一年のちょうど2学期が始まる時に神奈川県厚木市の三田というところに引っ越しました。
シティボーイだったわたくしは、子ども心に、厚木があまりに田舎で驚きました。
もう一つ、とてもビックリしたのは、小学校が木造の立派な校舎だったことです。講堂も木造でした。
厚木市立三田小学校、木造でした。
おそらく当時、昭和46年頃の話ですが、東京23区内で木造の大きな建物というのは見かけなくなっていたんぢゃないかと思うんです。だから、とても印象に残ってます。
で、ちょうど私が転校した年か、その次の年が厚木市立三田小学校の創立100周年で、紅白の饅頭もらったり、何だり、記念行事が行われました。
そこで、色々、小学校の沿革とか由来とかを聞かされたんですが、さらにビックリしたのは、その木造の立派な小学校と講堂が、一人の人物の寄付金によって建てられた、ということです。
世の中には偉い人がいるもんだなー、と。
その人は、現在の京王電鉄を発展させて晩年は貴族院議員を務められた井上篤太郎という人なんですが、またまたビックリしたことに、私が引っ越した場所からすぐそこで生まれ育った人だ、と。
さらにさらに、私が引っ越した場所からちょっと行った所に「才戸橋」っていう橋がかかってまして、その橋も井上篤太郎さんの寄付金によって作られたんだ、と知りまして、またビックリしました。
すげー。
そーゆー人を「偉人」というのか、と。
不明 – 『井上篤太郎翁』(井上篤太郎翁伝記刊行会、1953年), パブリック・ドメイン, リンクによる
具体的に紹介しましょう。
もう、地元の人も篤太郎さんの偉業をあんまり知らないですから。篤太郎さんの血筋の方もいるというのに。ま、「先祖は偉い」と血縁者からは言いにくいですからね。
篤太郎さんの具体的な話を代々地元に住んでる同級生に教えてあげると驚きやがりまして、
「東京から来た俺に教えられてどうすんだ?」
と叱っておきました。
ちなみに、情報のネタはすべて『井上篤太郎翁 』という1953年の本です。篤太郎さんが亡くなったあと、有志によって刊行された追悼集です。これからその内容を代読しますが、興味のある方はぜひ本をどうぞ。ただ、いつも売ってる本ではないので、売ってるのを見た時に多少高くても買っておいた方がよいでしょう。
電車も車もない頃、厚木で生まれて江戸で学ぶ
さて、井上篤太郎さん、生まれは、1859年、安政六年、江戸時代の末期です。
安政六年てーと、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の秋山好古が生まれた年、井伊直弼が大老に就任した翌年で「安政の大獄」によって 橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰が斬首された年です。
篤太郎さんのお父さん、徳太郎さん、若くして江戸に出ます。厚木のあたりは天領と小田原等の藩領が半々というか、時期によって天領だったり藩領だったりしていたようなので、比較的自由だったんでしょう。天領は、江戸時代でも比較的自由があったようですね。京都に行って新撰組を構成した人々、近藤勇や土方歳三や沖田総司も多摩の方の天領の人々ですし。
さすがに凡庸な人間をわざわざ江戸にまでやらないでしょうから、徳太郎さん、きっと学問ができたんでしょうね。さらに、勤王の志に燃えて活動したらしいです。
が、志は遂げられず、江戸で妻をめとって、28歳の時に帰郷します。
で、篤太郎さんが生まれます。
そして篤太郎さん、早くも6歳にして、江戸に出て、神田和泉橋の寺子屋で学問したそうです。
親が江戸に出てた影響もあるでしょうし、篤太郎さん自身も出来が良かったんでしょうね。当時江戸っつったら、えらい遠いですからね。歩いて行くわけですから。あたりまえですが。
が、篤太郎さん9歳の時、明治維新の際の戊辰戦争であまりに世上騒然となったため、
「郷里あるものは、女子供を帰郷させろ」
という布告が幕府から出ました。そのため、やむなく厚木に帰郷します。
で、愛川町の寺子屋に通ったり、実家から少し行った所に寄宿していた漢学者に習ったり何だりしながらも、やはり学問の欲求が満たされることがなかったため、16歳の春に再度東京に出ます。明治7年です。これも歩いて行ったわけです。あたりまえですが。
その際は、医学を志して緒方洪庵の次男・緒方惟準の塾に入ってドイツ語を学びつつ、鉱山業にも野心があって、その方向の勉学もはじめていたところ、父・徳太郎が55歳で急逝します。
仕方なく東京での勉学を断念し、故郷で家督を継ぎました。17歳です。
帰郷と推挽と自由民権運動
帰郷してすぐに、17歳で、小学校教員、大区小区制時代の区役所書記、愛甲郡役所書記を務めます。当時、学問を修めた人というのは貴重だったんだなー、と思わせますね。
翌年、18歳で三田村村会議員、農務委員、20歳で愛甲郡連合会の郡会議員に選ばれます。今の愛甲郡は愛川町と清川村ですが、当時の愛甲郡は厚木も含まれていました。
篤太郎さん19歳の年、明治10年に西郷隆盛が蜂起した西南の役が起こってますが、この年に妻をめとります。めでたいです。
さて、故郷で要職について、めでたく結婚して、落ち着いて故郷でがんばってくのかなー、と思ったら、意を決してすべての要職をすべて辞して再度、ではなく三度(みたび)、東京に学問に出たそうです。
向学心に燃えていたんですね。
青年は、安易な生活に満足できなかったんでしょう。
今度は明治法律学校(現在の明治大学)に入学して2年勉強しますが、またまた帰郷します。
米相場の暴落で農村が悲境に陥ったためであり、ひとり寂しく故郷に残る老母への孝養心のためです。
明治15年、篤太郎さん24歳になっています。
郷里に帰るとただちに要職に推されます。三田村村会議長、愛甲郡連合会議長、足柄・愛甲・津久井等六郡連合会議員、翌年から神奈川県会議員として活躍します。
「井上君の印象は温厚な君子ではあったが、どこか親分肌の血の通った政客であった。県会で同僚が面倒がって手をつけることを躊躇している時は、よし俺が引き受ける。といって易々と背負い込んでいった」(同僚だった県会議員)
で、板垣退助の自由党に属して、自由民権運動に身を投じます。神奈川・多摩地域というのは自由民権運動が非常に盛んだったとこです。
ところが、篤太郎さん、明治21年に出された保安条例によって、東京からの退去を命ぜられます。つまり、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止されます。
これ、自由民権運動を弾圧するために出された有名な弾圧法で、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民等々の錚々たるメンバーが弾圧されてます。
篤太郎さん30歳の頃の話です。
県会議員で村会議長として地方で活躍してる人まで弾圧しちゃうんですから、専制国家ってのは恐ろしいですねー。
ひとつ残念なのは、本書『井上篤太郎翁 』には、自由民権運動家としての篤太郎さんが全然描かれていないことです。
板垣退助の演説会が篤太郎さんの地元のお寺(清源院)で盛大に開かれたことがあるので、篤太郎さんも自由民権運動家としてかなり活躍していたのだと推測されます。
ま、『井上篤太郎翁』が編まれたのが昭和28年なので、残念ながら自由民権運動の全体像がまだ判明してないころなんですよね。
つまり、神奈川・多摩地域における自由民権運動というのは、民衆の中から生まれ出た民主主義の萌芽みたいな運動で、なかなか興味深いんです。
そのあたりを色川大吉が北村透谷を通じて掘り起こして「色川史学」と讃えられたわけですが、
色川大吉の研究成果が発表され始めたのは昭和40年前後の話です。したがって、追悼集『井上篤太郎翁』を編んだ昭和28年の関係者の皆さんは、
「板垣退助をはじめとした土佐閥が活躍した国会開設運動」
という、広がりのない視点で捉えていたのかもしれません。
というわけで、自由民権運動家としての篤太郎さんが全然描かれていません。そこはちょっと残念です。

政治家を辞めて経済界へ
篤太郎さん、政治家を辞めます。経済界に向かいます。
「その時分の政治運動というものは、生命も財産も捧げつくして、自由民権のために、という時代だったから、私は31、32歳の時には親から譲られた財産は大概つかってしまった。
こんなことをしていると師弟の教育ができなくなる。祖先に対しても相済まぬ。
と思ったので、ぷっつりと政界と縁を切り、実業界に踏み出すことになった」(篤太郎さんの述懐)
実業界入りの第一歩として選んだのは、自転車製造業です。明治23年、32歳の年です。
なにぃ?(゚ロ゚)
明治23年の日本に自転車製造業なんてあったんですね。
なんでも、夏目漱石が英国留学中のエッセイで自転車を紹介してるそうで、明治20年前後から日本国内でも多くの自動車製造業が起ち上がったそうです。
モダンです。
横浜にあった鉄工所が営業不振のため売りに出ていたものを、篤太郎さんの友人が買収して自転車製造業を始めるための相談を受けているうちに、経営に参加することになったそうです。
「横浜鉄工所」という名称だったそうですが、残念ながら9ヶ月しか続かず失敗に終わります。
横浜鉄工所をたたんだ翌月、請われて日本絹綿紡績株式会社保土ケ谷工場の支配人・技師長に迎えられます。現在の富士紡ホールディングス(富士瓦斯紡績株式会社/富士紡績株式会社)にその後買収された会社です。
なんでも日本絹綿紡績が保土ケ谷工場を建設したんですが、すぐに経営者間に意見の相違が出て、いったん頓挫した、と。
経営者の一人であった篤太郎さんの友人が篤太郎さんに会計監査と工場の将来性の検討を依頼します。
篤太郎さんは3ヶ月にわたって調査し、「将来は有望である」という回答を提出したため、日本絹綿紡績は再出発し、会社再建を目指すことになりました。
「ついては、あんたやってくれ」
ということで、支配人・技師長として大きな責任を担ったんでしょうね。
再出発の際、茂木惣兵衛、平沼専蔵、左右田金作といった横浜・神奈川の実業界で活躍していた大物が名を連ねます。
ここで、思い出してみましょう。篤太郎さんのここまでの人生、教師・政治家で、出身は明治法律学校です。そんな篤太郎さんが、なんで「技師長」なんだ、と。
日本絹綿紡績の機械はフランスとイタリアから購入したもので、両国から組立技師が招聘されて機械の据え付けから製造工程まで日本側に伝授したんですが、篤太郎さんはその折衝にあたっている間に技術を取得しちゃったんだそうです。
また、この年、養蚕・絹関係の特許を2つ取ります。「蚕繭解除液、絹糸紡績用原料精錬法等の発明特許権」です。
厚木とか愛川町の方は養蚕がとても盛んだった、というか、当時の日本には他に主要な産業がなかったんだと思うんですが、そのため篤太郎さんも、保安条例後、養蚕組合とか養糸組合の要職についています。その折に勉強したんですかね。
なんすか。
なんすか、この人(笑)
教師やって政治家やって自由民権の活動家はわかりますよ。なんとなくあるだろうなぁ、っていう気はしますよね。
なんでその人が、急に会計監査やって、工場の将来性の検討やって、紡績の製造技術者になって、養蚕・絹関係の特許取れるんすか?
頭がいいとか才能があるっつって片付けるのはたやすいですが、これは努力ですね。たゆまない努力の積み重ねです。
最近の学術的な研究では、天才ってのはいなくて、才能ってのももともとあるわけではなくて、集中力をもって、長年コツコツと努力を積み重ねたことの成果だ、とわかってきたんです。
ここで思い出してみましょう。
篤太郎さん、6歳で江戸に出て勉学してるわけですからね。車も電車もない時代に、歩いて江戸まで行って。義務教育でもないのに。
で、9歳の時、明治維新の騒乱で仕方なく厚木に帰ってきますが、16歳で再度東京へ出ます。
17歳の時、父親が急逝したため、再度厚木に帰らなければならなくなります。
そして18歳で三田村村会議員、19歳で結婚、20歳で愛甲郡連合会の郡会議員になりながら、勉学への志がやまず、三度(みたび)東京へ出て明治法律学校でさらに学んだわけです。
ですから、我々には考えられないほど、勉学に熱意を持ち、勉学の時間を積んでいて、勉学のプロといえるところまで行ってたんでしょうね。
これも最近の学術的な研究に依ります、1万時間の集中力を持った練習がこなせれば、何でもだいたいプロレベルにはなれるそうです。1日3時間やって10年です。
篤太郎さんは、勉学のプロだったんでしょうね。長年の研鑽によって、もう、体中がそうなってる、と。
だから、何かの未知の対象に向かっても、ビックリするくらい短期間で取得できてしまうんでしょう。きっと。
というわけで、日本絹綿紡績株式会社保土ケ谷工場から、篤太郎さんの実業界における活躍が始まりますが、日本絹綿紡績は十年で辞職します。日本絹綿紡績を発展させたんですが、どうも重役陣との確執があったようです。
経営をし、技師長でもあり、発明特許も持っている篤太郎さんへの嫉妬が多かったようです。
ちなみに、篤太郎さんが去った後の日本絹綿紡績は事業不振に陥って、三年後には富士瓦斯紡績株式会社(現在の富士紡ホールディングス)に買収されてしまいました。
さて、篤太郎さんは自分が特許を取った「絹糸紡績用原料精錬法」を売り込むために奔走します。
現代の感覚ではよくわかりませんが、明治のこの頃は、機械化された紡績業というのは新しく現れた成長産業です。明治日本の数少ない産業です。
で、篤太郎さんは特許を売り込むために富士瓦斯紡績に向かい、専務取締役の和田豊治に会います。

財界世話人・和田豊治との出会いと富士絹
和田豊治は、のちに富士紡績社長、日本興業銀行総裁等々を歴任して財界人として大活躍した人で、日本工業倶楽部・東洋製鉄・日華紡織・理化学研究所・第一生命保険・伊藤忠・帝国商業銀行など多数の企業設立に関与しました。
やっぱ、あれでしょうね、偉い人は偉い人がわかるんでしょうね。
和田豊治に特許の説明をし、実地試験をし、会食をしたんですが、和田豊治は、
「わかった。ついては、あんたがこの会社に入って、その特許を使って、会社を発展させてくれ」
と言い、篤太郎さんはその率直な態度と意気に感激して入社を快諾します。明治34年、43歳の時です。
「特許を売りに行った自分が、特許ばかりでなく身体まで売ってしまった(笑)」(篤太郎さんの述懐)
富士紡績では小山工場長、商務部長を歴任し、日本絹綿紡績を買収します。篤太郎さんがもともといた会社が、篤太郎さんが現在いる会社に買収されたわけです。
そして「富士絹(フジシルク)」を創製します。
富士絹は第二次世界大戦の頃まで続く大ヒット商品で、盛んに輸出されたため欧米でも知られていた商品です。
日露戦争が始まって日本では織物が売れなくなったので、中国で売るために中国に視察に行きます。蘇州→杭州→湖州→南京と4ヶ月回って諸々に調査・研究した結果、中国や欧州に売れるんじゃね?というものを思いついたので、日本に帰って6ヶ月試験して出来上がったのが富士絹です。
富士絹は大ヒットし、第二次世界大戦までに盛んに輸出され、日本の絹紡布の代名詞になりました。
その後、富士紡績の商務部長に昇進し、インド等へ販路を様々に拡張します。
しかし、突如政界へ転身します。

再び政界へ
さて、篤太郎さん、十余年にわたって働いて実績をあげてきた富士紡績をやめ、再び政界に進出します。明治45年/大正元年、篤太郎さん52歳の時です。
直接的には、時の政権与党で絶対多数を占めていた西園寺公望率いる政友会の有力者から口説かれたためですが、若い頃に情熱を燃やしたことへの憧憬というか、やりのこしたことへの痛恨があったのでしょう。
あるいは、日本帝国議会は、篤太郎さんも神奈川において一翼を担った自由民権運動の一つの帰結でもありますから、その実地確認もしたかったのでしょう。
とか言いながら、もしかすると、楽しかったからかもしれません。
篤太郎さんは、「競馬と政治は面白いからやらない」と冗談めかして人に言ってたそうです。
で、神奈川二区(橘樹郡、都築郡、久良岐郡)から立候補し、当選します。
当選後、数少ない経済財政通として、一年生議員ながら、地味に、しかし着実に活躍します。
ただ、三年で政界を引退します。
「議員として適材でないから」
と篤太郎さんは述懐したそうで、伝記の筆者は当時の政界が堕落していたので、清廉な篤太郎さんには堪え忍べなかったのだろうと述べています。
ただ、ま、当時の政界ってのは大変なとこで、今の政界とは全然違ったんだと思います。
まず、国会が首相を選ぶわけではなく、元老会議が首相を選んで天皇に奏上して決定されます。三権が分立してません。
また、陸軍と海軍が議会から独立してますね。
明治国家というのは、外国からの侵略への恐怖をテコに出来上がったようなとこがありますから、軍事最優先だったんですね。日露戦争終結くらいまで国家予算の半分以上を軍事に使っていました。大正にはいっても、5割弱くらい使っていたそうです。
そのため、政府のたてた予算や方針とは別にナンやかやと要求するわけです。「2個師団増やせ」「軍艦を作れ」とか要求してくるわけですよ。
さらに、藩閥が生きてます。
篤太郎さんが当選した時の首相は西園寺公望です。公家のプリンスとして岩倉具視に引き立てられて戊辰戦争において官軍の方面軍総督もつとめた明治維新の元勲です。
次の首相の桂太郎は長州藩士の出身で戊辰戦争にも参加し、山縣有朋の派閥に入って出世した人で、元老・井上馨の義理の息子です。
その次の首相の山本権兵衛は薩摩藩士の出身で、同じ町内の先輩である西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、後に明治海軍の兵学寮に入り、西郷従道の下で海軍の実質的トップとして大改革を断行し、困難だと思われた日露戦争を勝利に導いた立役者です。
その次、篤太郎さんが議員をやめた時の首相は大隈重信です。佐賀藩士として明治維新に奔走し、維新の元勲として維新後は要職を歴任しています。
つまり、まだまだ明治維新に直接参加した人々がゴロゴロいらっしゃって、藩閥が全盛の時代です。
ですから、ま、形としては議会があったり内閣があったりしてるわけですが、現在のようなキチッとした内容ではないわけです。前近代的というか、アジア的というか。
そんな場所では、合理的な精神をもった人間がいても、ちょっとなじめないでしょうね。
というわけで、篤太郎さん、再び経済界の人間になります。
働き場所は、玉川電鉄の取締役兼支配人です。和田豊治の推挽でした。大正2年、54歳の時です。

玉川電鉄から京王電鉄へ
さて、政界を引退して実業界に戻った篤太郎さん、和田豊治の推挽で玉川電鉄の経営を任されます。
玉川電鉄は、現在の東急田園都市線の前身、厳密に言うと、ちょっと昔で言う東急玉川線の前身です。
篤太郎さんが経営を任されたころは玉川電鉄の創業期で、渋谷〜二子玉川間を走ってましたが、創業以来配当が出せず、業績がふるわない状態でした。
篤太郎さんの最初の仕事は、イマイチうまく行っていない玉川電鉄の内部整理と再生です。
ここで篤太郎さん、大胆で行き届いた整理を行って、業績がふるわず赤字だった玉川電鉄を2年ほどで黒字化します。
「あぁ、この人は経営の才能があったのか」
と、和田豊治は確認したでしょう。
つまり、人間としてもビジネスマンとしても優秀なのはわかっていたが、経営者としてのテストにも合格したわけです。渋沢栄一の後継者としての日本の資本主義全体を発展させる責務を担った財界世話人・和田豊治のテストです。
経営と軍事の才能ってのはなかなかわからないものですね。知識があっても頭が良くてもダメで、やってみないとわからないんですね。
しかし、やってみて失敗するとかなりダメージが出たりします。経営に失敗すると赤字が出して資金を失いますし、軍事に失敗するとケガ人や死者が必要以上に出ます。そのため、簡単に試せないんです。したがって、誰にその才能があるのか、なかなかわからない、と。
篤太郎さんが玉川電鉄であげた才腕を見て、和田豊治は京王電軌に篤太郎さんを送り込みます。現在の京王電鉄で、玉川電鉄と同様、創業以来配当が出来ない状態でした。
大正4年、篤太郎さん57歳の時です。
この後、篤太郎さんは30年に渡って京王電鉄を経営し、業績を上げていきますので、京王電鉄の実質の創業者だと言われています。
篤太郎さんが就任する前の京王電軌は大変な状態で、笹塚駅 〜調布駅までしか線路が走っていないため、十分な収益があげられません。
一番重要な新宿駅に到達していません。新宿から笹塚駅まではバスを走らせてしのいでました。
そして、終点と決めた府中駅にも達していない状況です。府中ってのは、当時は甲州街道沿いの宿場町として繁栄していて、北多摩郡の郡役所が置かれた、地域の中核地でした。
というわけで、新宿と府中への延伸が必要なんですが、その建設資金に窮して森村財閥(現在のノリタケやTOTOをグループに抱える)の傘下に入り、その森村銀行が和田豊治に救済を相談し、しかし和田豊治が最初に推挽した人物も行き詰まった、という暗澹たる状況でした。
そんな緊急の状況だったため、和田豊治は、やっと収益を上げ始めた玉川電鉄から篤太郎さんを引っこ抜いたのでしょう。
で、篤太郎さん、京王電軌の救世主になります。
毎日毎日、京王電車の乗客数と収入高と京王閣(調布にあった「関東の宝塚」と称された大レジャー施設)の入場者数と収入を聞き、日曜も休まず、事故があれば自身で出かけ、社員の先頭に立って経営に没頭します。
ここで我々が知らなければならないのは、当時まだ「電車に乗る」という日常が一般化しておらず、新宿や渋谷等の繁華街に出るのに人力車や馬車や徒歩の方がよく使われていたことです。
隔世ですね。
現在、京王電鉄に「芦花公園」という駅があり、蘆花恒春園から近いのでそのような名称なんですが、蘆花恒春園は徳冨蘆花の旧宅です。
徳冨蘆花はこの地を都会の雑音の届かない土地、電車の音のない静かな土地として選んだそうです。
隔世です。
そんな中で、篤太郎さん、がんばってるわけです。

京王電鉄の苦境と発展
さて、篤太郎さん、大変な状況の京王電鉄の経営に乗り出しました。大正4年57歳の時です。
経営を引き受けるにあたって条件に出したのは、借入金の免除と新たな借入です。
京王電鉄の親会社の森村財閥は、森村財閥創設者の森村市左衛門が直々に森村銀行頭取として乗りだし、八十七万円の借入金を免除した上で、さらにもう五十万円貸してくれたそうです。当時の森村銀行の資本金と同じ額です。
そして、5カ年の基本計画を建てます。
・線路を延長すること
・複線工事を行うこと
・会社の収支状態を改善すること
・電灯電力事業の拡張
・玉川砂利の搬出
さらに、篤太郎さんはとても細やかな気遣いを持っていて、「電鉄とはサービスだ」と考えていたようです。
「電車というものは大衆の便利のためにあるべきで、私どもの電車(京王電鉄)は、このことだけは十分に考えているつもりです。」(篤太郎さんの述懐)
へぇ。
若い方はご存じないと思いますが、昔、電鉄会社ってサービス悪かったんですよ。
特に国鉄なんてひどいもんで、国鉄が分割民営化されても、それによって労働争議が起こっても、国民の多数の支持や同情を得られなかったのは、国鉄のサービスがひどすぎたからでしょうね。
わたしは子供の頃から神奈川中央交通のバスと小田急電鉄の電車を利用していました。
民営企業ですから、国鉄よりはサービス良かったですけど、ひどいもんでした。今考えれば。
あれは、たぶん、「公共の事業を行っているんだ」というオゴリでしょうね。企業としての。なんで、そこでオゴルのか、よくわかりませんが、それが古い日本だったんでしょう。
それを大正時代に「大衆の利便」なんつってるわけですから、合理的な精神にあふれてますね。
さらに、労使一体の大方針を持っていたそうです。
資本家と労働者が対立するのではなく、双方が会社の株式を持ち、会社と利害を共にする、と。そのため、増資の際には必ず社員にも株を割り当てた、と。
大正時代というのは、民衆が自身の権利を主張し始めた時代であり、マルクス経済主義が紹介され、メーデーが始まった時代なわけですが、篤太郎さん経営下の京王電鉄では、一度も労働争議が起こらなかったそうです。
「私は入社と同時に資本家と勤労者と顧客の三者は常に同一でなければならないと固く信じ、この主義の下に経営の任にあたっている。
まづ、労使関係について言えば、資本家という者があって巨万の富を擁していても、何か事業を起こしこれに投資しなければ、その資本を有効に使用することが出来ないから、巨万の富も死蔵するほかない。
他方、どんなに明敏な頭脳をもって、優秀な技能を有する勤労者があっても、資本家が事業をおこしてくれる限り、その才腕を振るうことができないから、むなしく仕事をしないで暮らすほかない。
ここに労使協調の必要が起こる。
つまり、仕事を起こしている資本家に仕事をする勤労者を結びつけることである。こうして、自然に共存共栄して事業の達成が望まれるのである。
しかし仕事はそれだけで出来るものではない。
電鉄会社としては一般の利用者本位ということを一時も忘れることはできないのである」(篤太郎さんの述懐)
見事に合理的な精神であり、経営哲学です。現代の人の話を聞いてるみたいですね。
そのような経営哲学を持って篤太郎さんは経営の任にあたった結果、京王電鉄の社運は上昇の一途をたどります。大正14年には、創業15周年記念配当を含めて18%の株主配当を行うことができ、株主にとても感謝されます。
しかもその間、これも和田豊治の依頼で王子電気軌道(現在の都電荒川線)の整理更生に力を貸したほか、昭和3年までに、下記のような要職を歴任しています。
・社団法人鉄道同志会 理事
・関東電気株式会社 監査役
・玉川製氷株式会社 取締役
・社団法人電気協会 理事
・南武鉄道株式会社 取締役
・社団法人帝国鉄道協会 理事・副会長
・在東京 神奈川県人会 会長
・目黒玉川電気鉄道株式会社 監査役
・神奈川県学生協会 会長
・大同電気株式会社 取締役
・甲州街道乗合自動車株式会社 社長
・相模瓦斯株式会社 取締役
そして昭和3年、70歳で、京王電気鉄道株式会社の取締役社長 兼 専務取締役に就任します。
しかし、日本は昭和2年に恐慌が起こり、経済は大不振に陥ります。昭和金融恐慌です。篤太郎さんと京王電鉄も、これに無縁ではいられませんでした。

昭和恐慌と大東急と京王電鉄での日々の終わり
篤太郎さんの経営下、順調に業績を伸ばしてきた京王電鉄ですが、昭和に入って恐慌が起こります。
「昭和恐慌」と呼ばれる深刻もので、一回だけでなく、何回かにわかれて発生し、世界的な恐慌も発生しました。そのため、日本経済は危機的状況に陥ります。
この昭和恐慌から起こった経済の混乱が、太平洋戦争へと至る動乱の大きな要因なわけで、日本は不安定で混乱した時期を迎えます。
篤太郎さんと京王電鉄もこれに無関係ではいられません。
京王電鉄は、大正4年に18%の配当を行いましたが、昭和7年には7%まで配当が低下します。
ただ、7%もかなり高いように思いますけどね。当時の状況がわからないのでハッキリとは言えませんが、2017年12月現在、東証一部二部上場の企業で7%も配当を出している会社はありません。ま、色々当時とは違う条件があるんでしょうが。
そんな中、昭和11年、二・二六事件の起こった年、老齢のため京王電鉄の社長を引退し、取締役会長に就任します。78歳です。
昭和12年に盧溝橋事件が発生し、日本は、いわゆる支那事変の泥沼に入り込みます。国内では、非常時体制が強制され、「陸上交通事業調整法」の成立により、鉄道業界は再編を迫られます。
日本は、支那事変が泥沼化して解決のメドが立たず、米国を奇襲して第二次世界大戦に参加したわけですが、戦局が悪化すると日常生活だけでなく経済界への統制も強化されます。
昭和17年に電力統制によって電力事業が分離されてしまいます。当時、電鉄会社は電力も販売しており、大きな収益を上げていました。大きな収益源を失うことにより、京王電鉄の収益は悪化します。
そのためもあり、昭和19年には電鉄事業も譲渡されます。東京急行電鉄(東急)への合併です。いわゆる「大東急」の時代ですね。現在の小田急、京急、相鉄、江ノ電、静鉄、そして京王電鉄は、みーんな五島慶太率いる東急傘下だったんですね。
篤太郎さん、86歳です。
ただ、篤太郎さんは東急の相談役に迎えられます。また、『井上篤太郎翁』の扉には、五島慶太による「私鉄界の先駆者」という揮毫が掲載されています。
篤太郎さん自身、統制経済下における交通統制の必要を論じた著書を率先して発表していたほどなので、真っ向から反対というわけではなかったのでしょうが、何らかの悲劇的心情は匂わされています。
おそらく、官僚出身で官僚をうまく使う五島慶太が、無理を通して京王電鉄を大東急に組み込んだんだと思うんですが、この辺りの事情がハッキリ記されてないんです。『井上篤太郎翁』には。おそらく五島慶太も存命で、GHQによる追放を解除されてバリバリやってる頃に本書が発刊されたので、遠慮したんでしょう。
こうして、30年に渡る篤太郎さんの京王電鉄での日々が終わります。篤太郎さんは86歳になっていました。
退職金の半分を故郷へ
京王電鉄が大東急に合併されたのは昭和19年です。昭和20年に戦争が終わります。篤太郎さんは昭和21年に貴族院議員に任じられます。
この最晩年、篤太郎さんは厚木の生地・才戸の渡しのそばに帰って暮らしたそうです。
そして、退職金の半分を故郷のために使います。
もともと教育に熱心な人だったようで、実業界で活躍している時も、母校である明治大学の財政逼迫を専務理事の任について支援し、その再興をしています。
また、神奈川県学生協会の会長を務め、神奈川県出身の後進の誘導に努めています。
さらに、昭和12年には私財を投じて(財)湘山会を設立し、故郷・神奈川県愛甲郡内の教育会、青少年団、国防協会等々への助成や功績表彰等の事業を営んでいます。「湘山」というのは篤太郎さんの号です。
そして橋のかかっていなかった故郷の川に才戸橋を建設し、道路を改修し、三田小学校の校舎を新築しました。
そのうえ、退職金の15%を京王電鉄の従業員に分けています。
つまり、篤太郎さんがもらった退職金の65%は人のために使っているわけです。
さらに昭和22年、戦後の大混乱で貨幣価値が暴落して大変な時ですが、わずかばかり残った資産である厚木市荻野の山林も荻野村小学校に寄付したそうです。
なんすかねー。
こーゆー偉い人っつーか、偉大な精神てのは、どうやって出来上がるんですかねー。
やっぱ「明治人」だってことですかね。普通の明治人ではなく、優れた明治人。
「公(おおやけ)」というか、publicというか、そーゆーものに奉仕するんだという精神にあふれてますね。そこんとこを、我々は第二次世界大戦で失いましたから、なんか別の世界の国の話のようですね。
数々行った善行や寄付を一切誇らなかった篤太郎さんですが、自分が死んだら追悼集のようなものを出して欲しいと願っていたそうです。
井上篤太郎という人間が生きていた、そしてこんなことをした、ということを少しでも伝えてほしい、と。
そんなわけで、私が、つまり篤太郎さんが造ってくれた木造の三田小学校に通ったことがある不肖私が、追悼集『井上篤太郎翁』を代読してインターネットに記載しました。ある明治人の記憶です。
