昨日、屋久島と奄美大島の間に位置している十島村の話を書いていて、田中一村のことを思い出しました。

 

田中一村というのは日本画家なんですが、50歳で何もかも捨てて一人で奄美大島に渡って大島紬の染色工のアルバイトをしながら生計をたて、5年働いた貯金で3年休んでじっくりと絵を描く、というような、孤独と貧窮の生活を送りながら自身の表現を高め、昭和52年に無名のまま死んでいった人です。

 

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一村は、最初から無名だったわけではありません。彫刻家・田中稲村の長男として生まれ、若くして水墨画に才能を発揮して「神童」と呼ばれました。

 

作家の湯原かの子は、著書『絵のなかの魂 評伝・田中一村』(新潮社)のなかで、以下のように紹介しています。

 

 

「1977年(昭和五十二)九月十一日、奄美大島の僻村の粗末な家で、看取る家族もなく、ひっそりと六十九歳の生涯を閉じた日本画家である。

 

幼い頃は神童といわれ、長じては天才画家と仰がれたが、生来の気性の激しさから画壇と相容れずに孤立。

 

五十歳の年に、長く住んだ千葉をあとに、一大決心のもと、たった一人で南海の島に渡ってきて、以来、極貧の生活に耐え、孤独のうちに亜熱帯の動植物を描き続けた。画壇からは忘れ去られた異端の日本画家――。

 

その画業も人知れず埋もれ、忘れ去られようとしていたが、一村の芸術と生き方に魅せられたごくわずかの人々の尽力で、死後二年を経て初めて名瀬市で遺作展が開かれ、ようやく日の目をみた。

 

さらに1984年、NHKの『日曜美術館』で一村の芸術と生涯を紹介した番組が放映されるや、全国で大きな反響を巻きおこし、以来、各地で開催された展覧会はいずれも好評を博したのだった。

 

生前はまったくの無名でありながら、死後十年足らずでこのように爆発的な人気を得た画家もめずらしい。日本画の伝統を超越してしまったような南国の動植物が織りなす幻想的な美と、貧に徹して己れの芸術に殉じた求道者ともいえる激しい生き方が、強く人々の心をとらえるからだろう。」

 

なにか、こー、表現者としてある種、理想的な生き方ですな。

 

腕はあって、クライアントの意向に沿って描けば生活には困らないが、それは自分の求める生き方ではない、と。自分の芸術を、もっともっと高めたい、と。

 

だから、周囲と簡単にまじわらない、と。画壇のお偉いさんの言うことも聞かない、と。

 

しょーがない。奄美大島に行こう、と。

 

もう孤独でも極貧でも構わない。自分の芸術を高められれば、それだけで構わない、と。

 

そこがね、素晴らしいですよ。われわれの心を打ちます。

 

奥さま方はそうは思わないでしょうが(笑)、何ですね、たった一度しかない人生をロマンティックな方面から見ていると、心打たれますね。

 

で、また、その芸術に動かされて、一村の死後多くの人々が魅了されたってのは良いですね。

 

芸術の良いとこはね、奥さん、わたしが誰であっても、どんな肌の色であっても、どんな容姿であっても、お金持ちでも貧乏でも、表現さえ良ければ世界が変わるってことさ。

 

つまりね、奥さん、一村は孤独で貧乏で、奄美大島の紬工場の同僚たちは

 

「内地で食い詰めた絵のうまい奇人」

 

だと思っていたんだよ。

 

でもね、一村が絵をね、つまり自分の表現を見せればね、そしてそれが素晴らしいものであればね、人々の見る目は一気に変わるんだよ。世界が変わるんだよ。

 

一村の場合、残念ながらそれが死後になっちゃったけど、そーゆー中で生きてる人もいて、それは素晴らしいことなんだよ。

 

とか言いつつ、まだ一度も一村の絵の実物を見たことないんです(苦笑)やっぱ、絵画は、そのものを見ないといけません。写真ではなく。

 

でも、田中一村記念美術館、奄美大島なんだよねー。遠いなー。でも、行かないとなー。