変貌するミューズ 歌手・松尾和子の伝記その8/吉田正とムード歌謡

2018年6月3日

松尾和子の歌手としての伝記を記しています。最初から読む方はこちら→

 

松尾和子が吉田正に弟子入りする形でデビューした1959年=昭和34年の吉田正というのは、三浦洸一の「東京の人」、マヒナスターズの「泣かないで」、フランク永井の「有楽町で会いましょう」「夜霧の第二国道」「東京午前三時」「西銀座駅前」、山田真二の「哀愁の街に霧が降る」と次々とヒットを飛ばし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、自身の新しい表現を開拓してブームを作っている真っ最中でした。

 

それはつまり「ムード歌謡」と賞されるものなわけですが、当然急に作られたものではなく、吉田正が彷徨と努力の末に開拓した表現分野です。

吉田正は「異国の丘」で実質的にデビューします。

 

この曲は、吉田正が満州に召集されて戦後シベリアでソビエトに抑留されていた時、戦友に歌ってもらうために作った曲です。それがいつの間にか誰かが詩をつけ、シベリア抑留兵士の間で広く歌われるようになり、復員してきた兵士の一人がNHKラジオの素人のど自慢で「よみ人しらず」として歌ったところ大評判をよびました。NHKが作曲家探しを始め、やっと復員してきた吉田正がNHKのラジオから流れる自分の歌を聴いてビックリしてNHKに作曲家として名乗り出て作曲生活を開始した、というお伽噺のような由来を持つ曲です。

 

シンデレラボーイですね。

 

吉田先生がご自身で歌ってらっしゃるものがYOUTUBEにアップされています。

ですが、そこから順風満帆というわけではなく、三十曲発売してヒットは一曲だけ、そのヒット後も2年間ヒット無しという時代があります。

 

そこで「歌う二枚目スター」として人気のあった鶴田浩二に出会って意気投合します。吉田正はシベリア帰りで鶴田浩二は特攻帰り(と宣伝には使われていたが、実際は特攻隊員を見送る立場)ですから、話が合ったようです。

 

「どうも𠮷さんは人間が堅すぎる。流行歌を作ろうという人が、それではどうにもならない」

 

と夜の街に連れ出され、社会勉強の結果「街のサンドイッチマン」「赤と黒のブルース」といった大ヒット曲を生み出します。

 

ただ、それでも吉田正自身は満足できず、自分独自の表現世界を探します。

 

昭和30年頃になると、戦争の傷跡も癒え、銀座や新橋では国産のウイスキーやハイボールを飲ませる大衆的なバーが増えてきます。縄のれんとか赤ちょうちんではなく、ちょっと洒落たとこですね。

 

そういうバーにはレコードプレーヤーが置いてあります。

 

当時、レコードプレーヤーもレコードも庶民には高級品ですから、ある意味お店に行って聴くもんだったんですね。

 

で、その、ちょっと洒落た大衆的バーのレコードプレーヤーに掛かる音楽が、ほとんどアメリカのポピュラーソングだった、と。これをどうにかしてムードのある日本の歌にできないか、と、吉田正は考えるわけです。そして、それが出来れば、自分独自の分野となるだろう、と。

 

その狙いに沿ってある種のテストをされたのが「赤と黒のブルース」であり、「東京の人」であり、「哀愁の街に霧が降る」でした。

 

それらのヒットで自信を得た吉田は、本格的な活動を始めます。ジャズを歌っていたフランク永井を説得して流行歌手に転向させ、ナイトクラブで人気を博していたマヒナスターズも流行歌手に転向させます。

 

そして昭和30年代にムード歌謡ブームを巻き起こします。

 

その一環として、松尾和子もスカウトされたわけです。

 

鶴田浩二、三浦浩一、山田真二、フランク永井、マヒナスターズと、ここまで出てきた歌手の皆さんはみんな男性です。そのためか、当時「吉田正は女性歌手の歌を作るのはヘタだ」という定評があったそうです。(吉田正 著『生命ある限り 吉田正・私の履歴書』)

 

同時に、吉田正が専属だったビクターにも同様の評判があり、両者が力を入れて女性の流行歌手を作ろうと意欲を燃やし、フランク永井と同じジャズ畑で、フランク永井が推薦した松尾和子をスカウトしたようです。

 

そして、デビュー作のA面がマヒナスターズと共唱の「グッド・ナイト」、B面がフランク永井と共唱の「東京ナイト・クラブ」です。すごいカップリングですね。どっちも大ヒットです。というより、日本歌謡史に残るような名曲です。そんな素晴らしい2曲でデビューしました。

 

「その9」へ続く→

音楽

Posted by hirooka