変貌するミューズ 歌手・松尾和子の伝記その7/クラブ・リキからメジャーデビューへ

2018年5月22日

松尾和子の歌手としての伝記を記しています。最初から読む方はこちら→

 

さて、松尾和子が1954年にレイモンド・コンデ&ゲイセプテッドの専属歌手になる少し前、「進駐軍クラブ音楽市場」とでも言うべきものが急速に縮小します。

 

1952年に「サンフランシスコ平和条約」が発効し、進駐軍が撤退を始めたからです。日本の主権が回復して連合軍の占領が終了したんですね。

 

日本と米国は、「サンフランシスコ平和条約」と同時に「日米安保条約」を結んだので米軍は駐留を継続し、それが現在の在日米軍なわけですが、規模や人員はかなり縮小され、「進駐軍クラブ音楽市場」の規模や予算も急降下しました。

 

そのような状況において、音楽家は色々と次の道を探ったようです。

 

穐吉敏子やナンシー梅木のように、米国本国に活躍の場を求めた人もいます。

 

当時の音楽家たちにとって幸いだったのは、今度は民衆が彼らの音楽を求めたことです。ナイトクラブや歌謡曲の伴奏、そしてラジオやテレビで音楽が必要とされました。

 

というわけで、松尾和子はナイトクラブに活躍の場を移します。

 

当時、ナイトクラブというのはとても隆盛で、現在では考えられないほどの数がありました。戦争でひどい目にあった民衆が、娯楽として音楽を求めていたんでしょうね。

 

松尾和子は、レイモンド・コンデ&ゲイセプテッドで活躍した後、1958年、力道山が経営していた赤坂のクラブ・リキの専属歌手になります。力道山は、レイモンド・コンデの店によく来ていたそうです。

クラブ・リキで非常に人気が出て、彼女が歌う「メランコリー」(シャンソン曲・越路吹雪の歌唱で著名)を聴くためにビルの周りを何周分か人が並んだ、という逸話もあります。

 

クラブ・リキにいつも彼女の歌を聴きに来る客の中にフランク永井がいて、松尾和子を吉田正とビクターに紹介します。結果、メジャーデビューすることになります。

 

1959年=昭和34年です。

 

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音楽

Posted by hirooka