変貌するミューズ 歌手・松尾和子の伝記その5/当時のジャズ歌手

2018年5月31日

松尾和子の歌手としての伝記を記しています。最初から読む方はこちら→

 

箱根から東京に出た若き日の松尾和子は、結婚して蒲田に住んでいた長姉の家に同居します。長姉の旦那がジャズバンドや歌手のマネージメントする仕事をしていたためです。この長姉の旦那さんが、松尾和子がジャズ歌手としてスタートする際、色々と面倒をみてくれました。

 

東京で渡辺弘のもとで勉強を始めますが、ほんの1ヶ月後、宮間利之のバンドの専属シンガーとして採用されます。宮間利之は海軍軍楽隊出身で、後年「宮間利之とニューハード」を結成して日本のトップ・ビッグバンドとして長く活躍された方です。

 

これは、特別に松尾和子が特に優れていたわけではなく、いや優れてはいたんでしょうが、当時はジャズ・ミュージシャンの需要がものすご〜くあったんですね。本稿「その4」に既述の如く。松尾和子自身も記しています。

 

「その頃の日本は、ジャズ歌手が少なかったので、英語を知らない私でも三曲覚えただけでプロになれたのです」『松尾和子の遺書 息子へ』

 

とにもかくにも、松尾和子のプロ歌手生活が始まります。進駐軍キャンプやクラブ回りのジャズ歌手でした。昭和26年(1951)・16歳です。


↑『進駐軍クラブから歌謡曲へ―戦後日本ポピュラー音楽の黎明期』掲載の写真

 

それはめでたいけど、歌手って稼げんの?

 

っていう疑問お持ちですよね?

 

この辺りも高度成長期以降生まれの我々にはわかりづらいところなんですが、松尾和子は歌が好きで才能があった、というだけで歌手の道に入ったわけではなく、お金を稼ぐ手段としても充分な見通しがあったから歌手の道に入ったんですね。

 

考えてみれば、先述の如く、大黒柱の父を失った松尾和子一家は、かなり貧しいわけです。松尾和子自身、述懐しています。

 

「私が9才の時父が亡くなり、戦争中だったので、食べる物がなく、着る物もなく、おばあちゃん(引用者註:松尾和子の母)と姉が二人で働いて私を育ててくれました。

 

だから学校から帰ると、友達は皆遊んでいますが、私は家の事をやらなければ、おばあちゃんが仕事から帰って時間までに掃除洗濯晩ごはんまで作っておかなければ大変、棒で殴られます。」

下記著作からの引用。なお、松尾和子には姉が二人いたんですが、長姉は早くに結核で亡くなり、そのはるか後年に私信で上記記述をしているため「母と姉が二人で」という記述になっていると思われます。

 

ま、日本全体が貧しかったので、戦中・戦後に苦労した話、貧乏をした話は、あの頃の日本の、特に空襲を受けた都会のそれぞれの家族に多かれ少なかれあるわけですが、そんな中で、海のものとも山のものともわからない歌手になるというのは、ちょっと飛躍があるのではないか、と。

 

そこが、当時を知らない我々には、よくわかんないとこですね。

 

そんなことないんですね。再掲ですが、『進駐軍クラブから歌謡曲へ』を読んで知りました。

 

 

当時のジャズミュージシャンの収入は、収入が低い人でも普通の社会人の倍はもらっていて、穐吉敏子(ピアニスト)のような売れっ子になると、17歳(1946)ですでに大卒新任公務員(国家公務員上級試験合格者)の2倍の報酬をもらっていたそうです。22歳(1951)の頃には約50倍になっていた、と。

 

あぁ、そうか。だーから様々な才能がジャズに集まったんだな、と納得しました。

 

音楽演奏は仕入れいりませんからね。ま、勉強した時代が仕入れだといえば仕入れですが、普通の商売のような仕入れはいりません。そうすると、原価計算とか販売管理とか何だとか難しい話は必要ありませんし、最初に投資が必要ないので赤字になる可能性も低く、仕事さえあれば儲けやすいんですね。

 

進駐軍キャンプ回りをしていた才能というのは、とーても多くて、たとえば下記のような方々です。

 

・渡辺プロの渡辺晋

・ホリプロの堀威夫

・穐吉敏子

・渡辺貞夫

・白木秀雄

・ジョージ川口

・フランキー堺

・ハナ肇

・植木等

・谷啓

・江利チエミ

・雪村いづみ

・ペギー葉山

・ウィリー沖山

・小坂一也

・フランク永井

・弘田三枝子

・伊東ゆかり

 

「その6」へ続く→

音楽

Posted by hirooka