変貌するミューズ 歌手・松尾和子の伝記その4/一流ジャズ

2018年3月18日

松尾和子の歌手としての伝記を記しています。最初から読む方はこちら→

 

米軍将校クラスのレストホテル(保養のためのホテル)だった箱根富士屋ホテルには、多くのバンドが出演します。将校クラスが聴くわけですから、当時日本で一流のジャズ・バンドです。また、当時のジャズというのは、流行の最先端でした

 

米軍が進駐した頃からサンフランシスコ平和友好条約が締結されて米軍がかなり撤退する頃まで、およそ昭和20年代全体というのは、米軍の需要によるバンド活動というのが非常に盛んでした。今では考えられないほど、ミュージシャンが必要とされていました。

 

下記の労作に詳細が記されていますが、

 

 

当時日本には進駐軍の兵士が溢れていて、全国各地に米軍(連合軍)基地、キャンプ、居住地があり、それぞれの場所に多くの将校クラブ・下士官クラブ・兵員クラブが総数500個所以上あった、と。

 

そのため、非常に大きな市場というか、需要が発生し、ミュージシャンが全く足りなかったそうです。

 

なんっつったって、東京駅や新宿駅の南口や北口に、毎日音楽の仲介業者が立ってて、楽器を持って集まってきた人々を集めて即席のバンドを組んで、どこかのクラブに斡旋する業務まで行っていたそうなんで、ほんと今じゃ考えられないですね。

 

そのくらい豊富に仕事があった、と。

 

そのような状況の中での日本の一流ジャズ・バンドが、お客として日本人が入れなかった箱根富士屋ホテルで演奏していました。

 

そこに、日本のポピュラー音楽の最前線に、日本人が容易に聴くことのできなかった最高峰の生演奏が演奏される場所に、少女・松尾和子は幸運にも存在し、かぶりつきで聴いていたわけです。小さな窓から、ほとんど毎晩見ていました。

 

それが、歌手・松尾和子を生んだんですね。

 

そんなある日、箱根富士屋ホテルに「渡辺弘とリクイド・イン・シックス」というバンドが出演していました。

 

渡辺弘はサックス奏者で、日本のジャズの草分けで、戦後も「ジャズ界の帝王」として君臨した人です。

 

その渡辺弘が、少女・松尾和子に

 

「なんか歌ってみるか」

 

と声をかけたそうです。

 

少女・松尾和子は、「アゲイン」という曲を歌いました。当時一世を風靡していたドリス・ディのヒット曲です。

 

すると、たまたま聴いていたプロダクションの人に「本式にやってみないか」と誘われたため、東京に出て行く決心をします。

 

「その5」へ続く→

音楽

Posted by hirooka