変貌するミューズ 歌手・松尾和子の伝記その3/箱根富士屋ホテル

2018年3月15日

松尾和子の歌手としての伝記を記しています。最初から読む方はこちら→

 

若き松尾和子と母と姉たちが働いていた箱根・宮ノ下にある「富士屋ホテル」は、現在とは経営母体の異なる、明治中期に建てられた外国人専用ホテルで、敗戦後は米軍に接収され、将校専用のホテルになっていました。

 

いわゆる「オフリミット(日本人立ち入り禁止)」で、日本人にとっては全く特別な場所でした。

 

 

創業者一族の末裔である方が、富士屋ホテルの歴史を丹念に描いた本があり、それを読んで知りました。

 

当時の様子が記されています。

 

「富士屋ホテルは、将校クラスのレストホテル(保養のためのホテル)だった。

 

米軍から贅沢な物資が供給され、(略)マッカーサー夫人や息子のアーサーが富士屋に遊ぶとなれば、分厚いステーキ肉や夫人の好物だったパイナップルなどが、ふんだんにヘリコプターで輸送された。

 

(略)

 

昭和二十年代、日本人の誰もが飢えていた時代、富士屋ホテルは不夜城のごとく光り輝き、毎晩がパーティーのようだった。

 

(略)

 

富士屋ホテルの外と中とでは、飢えたパリの民衆と享楽の限りが尽くされたベルサイユ、それほどの温度差があったに違いない」〜『箱根富士屋ホテル物語』

 

また、『かながわの温泉』(禅馬 三郎)には以下のように記されています。

 

「太平洋戦争末期にはドイツ等日本と同名を結んでいた外交大・公使館家族の疎開宿舎となったが、戦後は一転してアメリカ軍将校の専用ホテルとして接収され、昭和27年(1952)、平和条約が発効されるまで、日本人の利用は阻まれていたのである。

 

その頃のホテルの雰囲気を小節にしたのが山口家(引用者註:創業家)と関係のある作家・曾野綾子のデビュー作『遠来の客たち』である。昭和29年(1954)上期の芥川賞候補になった。

 

ホテルで働く少女の目を通して、戦勝国民として日本へ来た米国の将校、下士官の生態や日本人従業員との交流を新鮮に描き出した作品。曾野もここでガイドのアルバイトをしていたことがあり、その体験が随所に生かされている。

 

「不夜城のように大きくひらけた窓という窓に光を満たしたホテルの三層の建物が、妖しい程の鮮やかさと豪華さで、黒い夜の山肌を背景に私達の頭の上にのしかかっています。」

 

戦後の混乱期の中、一般民家や旅館の停電、節電をよそにこのホテルはいつも煌々とまぶしいほどの明かりがともっていた。

 

宿泊客はディナーの後はダンスパーティだった。」〜『かながわの温泉』

 

その箱根富士屋ホテルに母と姉が働きに出ていたので、松尾和子自身も仕事を得るため面接に行きますが、「高校を出ていないから」という理由で落とされます。

 

ただ、戦後すぐの混乱期ですから、簡単に仕事はありません。特に、観光地・箱根の話ですからね。

 

というわけで、仕方なく母達を手伝いながら、箱根富士屋ホテルのちょっとした仕事を手伝おうようになります。

 

そしてこれが、歌手・松尾和子を生む揺り籠になります。

 

「その4」へ続く→

 

音楽

Posted by hirooka