美術・文芸評論家で和光大学教授で美術評論家連盟の会長だった針生一郎先生は、大学時代からの恩師でした。

 

画像引用:大木晴子氏の「明日も晴れ」から

 

晩年、ガンを何回か患われながらも、シャッキリされており「さすが反骨の美術評論家」なんて思ってました。

 

すると、先に奥さまが亡くなられてしまい、とても落ち込まれていました。

 

そこで「なにか気が紛らわせていただければ」というわけで、わたしの頃のゼミ仲間だった画家のヤン・シャオミンさんが音頭を取って、針生さんのお宅で、1〜2ヶ月に1回「自主ゼミ」ってやつを行うことになりました。昔々、15年位前まで行っていたことを再開しよう、と。

 

大学とかに決められたゼミではなく、自分たちで自主的にやるゼミってことですね。

 

で、まぁ、何回かやってるうちに少しだけお元気になられて、

 

「最後の本を書こうと思っている」

 

という話をされていました。20世紀初めにスイスの湖畔に集まった前衛芸術家たちのコンミューンの話で、そのために秘書みたいな人を頼んだんだ、と。

 

2010年に針生さんが亡くなってから、

 

「そういえば、あの本はどうなったのだろうか?」

 

と、時々思い出していたんですが、そのうちに宮城県美術館で「わが愛憎の画家たち 〜 針生一郎と戦後美術」っていう展覧会が開かれたり、わたしのゼミ仲間も編集を手伝ったらしい『針生一郎蔵書資料年表―美術・文学・思想』ていう本が出たりしたので、そのうち出版されるのかな、と思っていました。

 

 

ふと先日、先述の「秘書みたいな人」が針生さんの最晩年の話を記しているホームページを発見しました。

 

針生先生との一年 「序章 この地域とのわが出会いまで」

 

ホームページ上に筆者のプロフィールがないので書いた方の詳細はわからないんですが、「サカガミ シノブ」という女性で、画廊や美術館でキュレーターをされている方のようです。

 

サカガミ シノブさんによると、どうも針生さんの最後の本は完了しなかったみたいですが、サカガミ シノブさんの描写した針生さんの最晩年は、とーても懐かしい。

 

針生さんのお宅の書棚の描写なんて、ほんとにその通りで面白いです。

 

また、針生さんが晩年よく話されていたことが、すごくまとまって記されていて、ついでに一歩踏み込んで深く記されていて、最高です。とても、ありがたいです。

 

「師を持つ」良さの一つは、ま、わたしは針生さんに弟子入りしたわけでもないし、針生さんも弟子だと思ってたわけではないでしょうが、何となーく長年教えを受けていたのでそんな感じになっちゃったわけですが、この「師を持つ」良さの一つはですね、すぐにその頃の気持ちを引き出せるっていうことですね。

 

大学時代に読んだり話したりした針生さんの文章を読むと、その頃の気持ちがすぐによみがえってきます。

 

サカガミ シノブさんが記されている晩年の針生さんの発言を読んでも、その頃の気持ちがすぐによみがえってきます。

 

ですから、サカガミ シノブさんが針生さんの最晩年を書き留めてくれていることが、とてもありがたいことです。

 

だけでなく、サカガミ シノブさん、さすがにキュレーターとして冷静な目をお持ちで、次のように記されてます。

 

「先生は美術評論はするものの、肝心の美術作品を見る目はあまり確かでは無かったように私には感じられる。各種の展覧会には足繁く通っていたが、実際作品一点一点をしっかりと見てはいなかったように思う。

 

先生は美術評論家ではあったが,先生の言葉を改めて思い返してみると、作品そのものにはあまり興味を持っていなかった。むしろ作品が大事なのではなく,美術が社会に対し,いかに関わりを持てるか,という事が先生にとっての最重要課題だったのではないか。」

 

なるほどなー、と。

 

わたしの大学時代当時、針生さんが大嫌いだったのは、当時画壇の重鎮というか、巨頭だった平山郁夫と東山魁夷で、一押しだったのはハンス・ハーケでした。

 

後年、針生さんがディレクターをつとめられた光州ビエンナーレ特別展『芸術と人権』への出品をハンス・ハーケに頼んだところ、「それなら新しい作品を出すべきだが、新しい作品を作るには期間がない」と言って断られたという話をされてました。

 

ハンス・ハーケってのは、いまはわかりませんが、1990年前後は、ベンツ社や大金持ちがアパルトヘイト(南アフリカにあった人種差別政策)を支援している、とか、ニューヨークのビルの不動産売買に不正がある、とか、そーゆー政治的というか、資本主義の矛盾というか、表現の自由を問うというか、そーゆーものをアートにしてた人です。

 

で、こーゆー↓作品が並べられたり、不動産の登記簿のコピーが並べられたりするわけです。

 

ま、面白いといえば面白いし、意義があるといえば意義があるんですが、「これはアートのやるべきことなんだろうか?」と、当時思いました。

 

ただ、サカガミシノブさんがおっしゃるように

 

「美術が社会に対し,いかに関わりを持てるか」

 

という意味では、とても素晴らしいアートです。

 

一方で、例えば東山魁夷のアートとは全く違いますよね。

 

 

ある時、針生さんが、教授として長年勤められた和光大学の入試の面接かなんかで、ある生徒に

 

「芸術家は誰が好き?」

 

と尋ねたら、

 

「東山魁夷」

 

とその生徒が答えたので、

 

「東山魁夷みたいなのを好きなんだったら、他の大学に行けばいいんだ(苦笑)」

 

と思ったという話をされてましたが(笑)、わたし、最近、東山魁夷先生のリトグラフとかを時々仕入れて販売してるもので、作品を間近で見ることがあります。すると、

 

「これは、そう簡単に否定できないな」

 

という気がします。

 

やはりね、美しいです。とーても。

 

これを一概に否定するには、強靱な原理がいります。

 

針生さんは、いわゆる「戦後派」の第二世代くらいで、戦争の廃墟の中から立ち上がった若者の一人でした。既成の権威が敗戦でズタズタな状態な中で、それを否定し、自分たちの新しい原理を探しだす必要があったわけです。

 

美術の例で言えば、戦前の白樺派的なものやフォービズム的なものを否定しなければならない、と。趣味的な、感覚的な美意識だけで作品を創り、評論してはならない、と。

 

そのあたりが新世代の美術評論家として針生一郎が登場した意義であり、オリジナリティであり、読者に迎えられた理由でしょう。

 

それに、針生さんが旧制高校時代から持っている社会活動家のような方向性が加わって、独自の活動を展開されたんだろうな、と。

 

そのような強靱な原理を持って、「芸術と社会」をずーーーっと問い続けていらっしゃったんだろうな、と。大学のゼミの名称も「芸術と社会」でしたし。

 

ついでに、だから、わたしには針生さんの話がわかりづらかったのかなぁ、とも思い至りました(笑)

 

わたしは「芸術」の話を聞いてるつもりでいて、針生さんは「社会」の話をされていたからなのかなぁ、と。

 

そんなわけで、お薦めのホームページです↓針生ゼミにいたことがある方は、ぜひ読みましょう。

 

針生先生との一年 「序章 この地域とのわが出会いまで」