ある明治人の伝記その6〜井上篤太郎/玉川電鉄から京王電鉄へ

2017年12月25日

厚木市 上三田出身で、京王電鉄を経営して業績を上げ、晩年は貴族院議員を務めた井上篤太郎さんの伝記その6です。最初から読む方はこちらから→

 

さて、政界を引退して実業界に戻った篤太郎さん、和田豊治の推挽で玉川電鉄の経営を任されます。

 

玉川電鉄は、現在の東急田園都市線の前身、厳密に言うと、ちょっと昔で言う東急玉川線の前身です。

 

篤太郎さんが経営を任されたころは玉川電鉄の創業期で、渋谷〜二子玉川間を走ってましたが、創業以来配当が出せず、業績がふるわない状態でした。

 

篤太郎さんの最初の仕事は、イマイチうまく行っていない玉川電鉄の内部整理と再生です。

 

ここで篤太郎さん、大胆で行き届いた整理を行って、業績がふるわず赤字だった玉川電鉄を2年ほどで黒字化します。

 

「あぁ、この人は経営の才能があったのか」

 

と、和田豊治は確認したでしょう。

 

つまり、人間としてもビジネスマンとしても優秀なのはわかっていたが、経営者としてのテストにも合格したわけです。渋沢栄一の後継者としての日本の資本主義全体を発展させる責務を担った財界世話人・和田豊治のテストです。

 

経営と軍事の才能ってのはなかなかわからないものですね。知識があっても頭が良くてもダメで、やってみないとわからないんですね。

 

しかし、やってみて失敗するとかなりダメージが出たりします。経営に失敗すると赤字が出して資金を失いますし、軍事に失敗するとケガ人や死者が必要以上に出ます。そのため、簡単に試せないんです。したがって、誰にその才能があるのか、なかなかわからない、と。

 

篤太郎さんが玉川電鉄であげた才腕を見て、和田豊治は京王電軌に篤太郎さんを送り込みます。現在の京王電鉄で、玉川電鉄と同様、創業以来配当が出来ない状態でした。

 

大正4年、篤太郎さん57歳の時です。

 

この後、篤太郎さんは30年に渡って京王電鉄を経営し、業績を上げていきますので、京王電鉄の実質の創業者だと言われています。

 

篤太郎さんが就任する前の京王電軌は大変な状態で、笹塚駅 〜調布駅までしか線路が走っていないため、十分な収益があげられません。

 

一番重要な新宿駅に到達していません。新宿から笹塚駅まではバスを走らせてしのいでました。

 

そして、終点と決めた府中駅にも達していない状況です。府中ってのは、当時は甲州街道沿いの宿場町として繁栄していて、北多摩郡の郡役所が置かれた、地域の中核地でした。

 

 

というわけで、新宿と府中への延伸が必要なんですが、その建設資金に窮して森村財閥(現在のノリタケやTOTOをグループに抱える)の傘下に入り、その森村銀行が和田豊治に救済を相談し、しかし和田豊治が最初に推挽した人物も行き詰まった、という暗澹たる状況でした。

 

そんな緊急の状況だったため、和田豊治は、やっと収益を上げ始めた玉川電鉄から篤太郎さんを引っこ抜いたのでしょう。

 

で、篤太郎さん、京王電軌の救世主になります。

 

毎日毎日、京王電車の乗客数と収入高と京王閣(調布にあった「関東の宝塚」と称された大レジャー施設)の入場者数と収入を聞き、日曜も休まず、事故があれば自身で出かけ、社員の先頭に立って経営に没頭します。

 

ここで我々が知らなければならないのは、当時まだ「電車に乗る」という日常が一般化しておらず、新宿や渋谷等の繁華街に出るのに人力車や馬車や徒歩の方がよく使われていたことです。

 

隔世ですね。

 

現在、京王電鉄に「芦花公園」という駅があり、蘆花恒春園から近いのでそのような名称なんですが、蘆花恒春園は徳冨蘆花の旧宅です。

 

徳冨蘆花はこの地を都会の雑音の届かない土地、電車の音のない静かな土地として選んだそうです。

 

隔世です。

 

そんな中で、篤太郎さん、がんばってるわけです。

 

続く→

 

 

 

 

 

 

日常

Posted by hirooka