ある明治人の伝記その5〜井上篤太郎/再び政界へ

2017年12月22日

厚木市 上三田出身で、京王電鉄を経営して業績を上げ、晩年は貴族院議員を務めた井上篤太郎さんの伝記その5です。最初から読む方はこちらから→

 

さて、篤太郎さん、十余年にわたって働いて実績をあげてきた富士紡績をやめ、再び政界に進出します。明治45年/大正元年、篤太郎さん54歳の時です。

 

直接的には、時の政権与党で絶対多数を占めていた西園寺公望率いる政友会の有力者から口説かれたためですが、若い頃に情熱を燃やしたことへの憧憬というか、やりのこしたことへの痛恨があったのでしょう。

 

また、日本帝国議会は、篤太郎さんも神奈川において一翼を担った自由民権運動の一つの帰結でもありますから、その実地確認もしたかったのでしょう。

 

とか言いながら、もしかすると、楽しかったからかもしれません。

 

篤太郎さんは、「競馬と政治は面白いからやらない」と冗談めかして人に言ってたそうです。

 

で、神奈川二区(橘樹郡都築郡久良岐郡)から立候補し、当選します。

 

当選後、数少ない経済財政通として、一年生議員ながら、地味に、しかし着実に活躍します。

 

ただ、三年で政界を引退します。

 

「議員として適材でないから」

 

と篤太郎さんは述懐したそうで、伝記の筆者は当時の政界が堕落していたので、清廉な篤太郎さんには堪え忍べなかったのだろうと述べています。

 

ただ、ま、当時の政界ってのは大変なとこで、今の政界とは全然違ったんだと思います。

 

まず、国会が首相を選ぶわけではなく、元老会議が首相を選んで天皇に奏上して決定されます。三権が分立してません。

 

また、陸軍と海軍が議会から独立してますね。

 

明治国家というのは、外国からの侵略への恐怖をテコに出来上がったようなとこがありますから、軍事最優先だったんですね。日露戦争終結くらいまで国家予算の半分以上を軍事に使っていました。大正にはいっても、5割弱くらい使っていたそうです。

 

そのため、政府のたてた予算や方針とは別にナンやかやと要求するわけです。「2個師団増やせ」「軍艦を作れ」とか要求してくるわけですよ。

 

さらに、藩閥が生きてます。

 

篤太郎さんが当選した時の首相は西園寺公望です。公家のプリンスとして岩倉具視に引き立てられて戊辰戦争において官軍の方面軍総督もつとめた明治維新の元勲です。

 

次の首相の桂太郎は長州藩士の出身で戊辰戦争にも参加し、山縣有朋の派閥に入って出世した人で、元老・井上馨の義理の息子です。

 

その次の首相の山本権兵衛は薩摩藩士の出身で、同じ町内の先輩である西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、後に明治海軍の兵学寮に入り、西郷従道の下で海軍の実質的トップとして大改革を断行し、困難だと思われた日露戦争を勝利に導いた立役者です。

 

その次、篤太郎さんが議員をやめた時の首相は大隈重信です。佐賀藩士として明治維新に奔走し、維新の元勲として維新後は要職を歴任しています。

 

つまり、まだまだ明治維新に直接参加した人々がゴロゴロいらっしゃって、藩閥が全盛の時代です。

 

ですから、ま、形としては議会があったり内閣があったりしてるわけですが、現在のようなキチッとした内容ではないわけです。前近代的というか、アジア的というか。

 

そんな場所では、合理的な精神をもった人間がいても、ちょっとなじめないでしょうね。

 

というわけで、篤太郎さん、再び経済界の人間になります。

 

働き場所は、玉川電鉄の取締役兼支配人です。和田豊治の推挽でした。大正2年、55歳の時です。

 

続く→

 

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Posted by hirooka