厚木市 上三田出身で、京王電鉄を経営して業績を上げ、晩年は貴族院議員を務めた井上篤太郎さんの伝記その2です。最初から読む方はこちらから→

 

さて、篤太郎さん、実業界に踏み出して日本絹綿紡績を10年間発展させますが、経営者たちを意見があわず、やめてしまいます。

 

篤太郎さんが発明して特許を取った「絹糸紡績用原料精錬法」の使用に関して、日本絹綿紡績の経営者と意見を異にしたわけですが、この特許を売り込むために奔走します。

 

現代の感覚ではよくわかりませんが、明治のこの頃は、機械化された紡績業というのは新しく現れた成長産業です。明治日本の数少ない産業です。

 

で、篤太郎さんは特許を売り込むために富士紡績に向かい、専務取締役の和田豊治に会います。

 

和田豊治は、のちに富士紡績社長、日本興業銀行総裁等々を歴任して財界人として大活躍した人で、日本工業倶楽部・東洋製鉄・日華紡織・理化学研究所・第一生命保険・伊藤忠・帝国商業銀行など多数の企業設立に関与しました。

 

やっぱ、あれでしょうね、偉い人は偉い人がわかるんでしょうね。

 

和田豊治に特許の説明をし、実地試験をし、会食をしたんですが、和田豊治は、

 

「わかった。ついては、あんたがこの会社に入って、その特許を使って、会社を発展させてくれ」

 

と言い、篤太郎さんはその率直な態度と意気に感激して入社を快諾します。明治34年、43歳の時です。

 

「特許を売りに行った自分が、特許ばかりでなく身体まで売ってしまった(笑)」(篤太郎さんの述懐)

 

富士紡績では小山工場長、商務部長を歴任し、日本絹綿紡績を買収します。

 

さらに「富士絹(フジシルク)」を創製します。

 

富士絹は第二次世界大戦の頃まで続く大ヒット商品で、盛んに輸出されたため欧米でも知られていた商品です。

 

日露戦争が始まって日本では織物が売れなくなったので、中国で売るために中国に視察に行きます。蘇州→杭州→湖州→南京と4ヶ月回って諸々に調査・研究した結果、中国や欧州に売れるんじゃね?というものを思いついたので、日本に帰って6ヶ月試験して出来上がったのが富士絹です。

 

富士絹は大ヒットし、第二次世界大戦までに盛んに輸出され、日本の絹紡布の代名詞になりました。

 

その後、富士紡績の商務部長に昇進し、インド等へ販路を様々に拡張します。

 

しかし、突如政界へ転身します。

 

明治45年/大正元年、篤太郎さん54歳の時です。

 

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