厚木市 上三田出身で、京王電鉄を経営して業績を上げ、晩年は貴族院議員を務めた井上篤太郎さんの伝記その2です。最初から読む方はこちらから→

 

 

さて、篤太郎さん、ぷっつりと政界と縁を切り、実業界に踏み出しました。

 

実業界入りの第一歩として選んだのは、自転車製造業です。明治23年、32歳の年です。

 

なにぃ?(゚ロ゚)

 

明治23年の日本に自転車製造業なんてあったんですね。

 

なんでも、夏目漱石が英国留学中のエッセイで自転車を紹介してるそうで、明治20年前後から日本国内でも多くの自動車製造業が起ち上がったそうです。

 

モダンです。

 

横浜にあった鉄工所が営業不振のため売りに出ていたものを、篤太郎さんの友人が買収して自転車製造業を始めるための相談を受けているうちに、経営に参加することになったそうです。

 

「横浜鉄工所」という名称だったそうですが、残念ながら9ヶ月しか続かず失敗に終わります。

 

横浜鉄工所をたたんだ翌月、請われて日本絹綿紡績株式会社保土ケ谷工場の支配人・技師長に迎えられます。現在の富士紡ホールディングス(富士瓦斯紡績株式会社/富士紡績株式会社)にその後買収された会社です。

 

なんでも日本絹綿紡績が保土ケ谷工場を建設したんですが、すぐに経営者間に意見の相違が出て、いったん頓挫した、と。

 

経営者の一人であった篤太郎さんの友人が篤太郎さんに会計監査と工場の将来性の検討を依頼します。

 

篤太郎さんは3ヶ月にわたって調査し、「将来は有望である」という回答を提出したため、日本絹綿紡績は再出発し、会社再建を目指すことになりました。

 

「ついては、あんたやってくれ」

 

ということで、支配人・技師長として大きな責任を担ったんでしょうね。

 

再出発の際、茂木惣兵衛平沼専蔵左右田金作といった横浜・神奈川の実業界で活躍していた大物が名を連ねます。

 

ここで、思い出してみましょう。篤太郎さんのここまでの人生、教師・政治家で、出身は明治法律学校です。そんな篤太郎さんが、なんで「技師長」なんだ、と。

 

日本絹綿紡績の機械はフランスとイタリアから購入したもので、両国から組立技師が招聘されて機械の据え付けから製造工程まで日本側に伝授したんですが、篤太郎さんはその折衝にあたっている間に技術を取得しちゃったんだそうです。

 

また、この年、養蚕・絹関係の特許を2つ取ります。「蚕繭解除液、絹糸紡績用原料精錬法等の発明特許権」です。

 

厚木とか愛川町の方は養蚕がとても盛んだった、というか、当時の日本には他に主要な産業がなかったんだと思うんですが、そのため篤太郎さんも、保安条例後、養蚕組合とか養糸組合の要職についています。その折に勉強したんですかね。

 

なんすか。

 

なんすか、この人(笑)

 

教師やって政治家やって自由民権の活動家はわかりますよ。なんとなくあるだろうなぁ、っていう気はしますよね。

 

なんでその人が、急に会計監査やって、工場の将来性の検討やって、紡績の製造技術者になって、養蚕・絹関係の特許取れるんすか?

 

頭がいいとか才能があるっつって片付けるのはたやすいですが、これは努力ですね。たゆまない努力の積み重ねです。

 

最近の学術的な研究では、天才ってのはいなくて、才能ってのももともとあるわけではなくて、集中力をもって、長年コツコツと努力を積み重ねたことの成果だ、とわかってきたんです。

 

ここで思い出してみましょう。

 

篤太郎さん、6歳で江戸に出て勉学してるわけですからね。車も電車もない時代に、歩いて江戸まで行って。義務教育でもないのに。

 

で、9歳の時、明治維新の騒乱で仕方なく厚木に帰ってきますが、16歳で再度東京へ出ます。

 

17歳の時、父親が急逝したため、再度厚木に帰らなければならなくなります。

 

そして18歳で三田村村会議員、19歳で結婚、20歳で愛甲郡連合会の郡会議員になりながら、勉学への志がやまず、三度(みたび)東京へ出て明治法律学校でさらに学んだわけです。

 

ですから、我々には考えられないほど、勉学に熱意を持ち、勉学の時間を積んでいて、勉学のプロといえるところまで行ってたんでしょうね。

 

これも最近の学術的な研究に依ります、1万時間の集中力を持った練習がこなせれば、何でもだいたいプロレベルにはなれるそうです。1日3時間やって10年です。

 

篤太郎さんは、勉学のプロだったんでしょうね。長年の研鑽によって、もう、体中がそうなってる、と。

 

だから、何かの未知の対象に向かっても、ビックリするくらい短期間で取得できてしまうんでしょう。きっと。

 

というわけで、日本絹綿紡績株式会社保土ケ谷工場から、篤太郎さんの実業界における活躍が始まりますが、日本絹綿紡績は十年で辞職します。日本絹綿紡績を発展させたんですが、どうも重役陣との確執があったようです。

 

経営をし、技師長でもあり、発明特許も持っている篤太郎さんへの嫉妬的反対が多かったようです。

 

篤太郎さんが去った後の日本絹綿紡績は事業不振に陥って、三年後には富士瓦斯紡績株式会社(現在の富士紡ホールディングス)に買収さてしまいます。

 

その富士瓦斯紡績の絹糸部を率いていたのは、篤太郎さんでした。

 

続く→