厚木市 上三田出身で、京王電鉄を経営して業績を上げ、晩年は貴族院議員を務めた井上篤太郎さんの伝記その2です。最初から読む方はこちらから→

 

父・徳太郎が55歳で急逝した篤太郎さん、仕方なく東京での勉学を断念して帰郷し、17歳で家督を継ぎました。

 

帰郷してすぐに、17歳で、小学校教員、大区小区制時代の区役所書記、愛甲郡役所書記を務めます。

 

当時、学問を修めた人というのは貴重だったんだなー、と思わせますね。

 

翌年、18歳で三田村村会議員、農務委員、20歳で愛甲郡連合会の郡会議員に選ばれます。今の愛甲郡は愛川町と清川村ですが、当時の愛甲郡は厚木も含まれていました。

 

で、篤太郎さん19歳の年、明治10年に西郷隆盛が蜂起した西南の役が起こってますが、この年に妻をめとります。めでたいです。

 

さて、故郷で要職について、めでたく結婚して、落ち着いて故郷でがんばってくのかなー、と思ったら、意を決してすべての要職をすべて辞して再度、ではなく三度(みたび)、東京に学問に出たそうです。

 

向学心に燃えていたんですね。

 

青年は、安易な生活に満足できなかったんでしょう。

 

今度は明治法律学校(現在の明治大学)に入学して2年勉強しますが、またまた帰郷します。

 

米相場の暴落で農村が悲境に陥ったためであり、ひとり寂しく故郷に残る老母への孝養心のためです。

 

明治15年、篤太郎さん24歳になっています。

 

郷里に帰るとただちに要職に推されます。三田村村会議長、愛甲郡連合会議長、足柄・愛甲・津久井等六郡連合会議員、翌年から神奈川県会議員として活躍します。

 

「井上君の印象は温厚な君子ではあったが、どこか親分肌の血の通った政客であった。県会で同僚が面倒がって手をつけることを躊躇している時は、よし俺が引き受ける。といって易々と背負い込んでいった」(同僚だった県会議員)

 

で、板垣退助の自由党に属して、自由民権運動に身を投じます。神奈川・多摩地域というのは自由民権運動が非常に盛んだったとこです。

 

ところが、篤太郎さん、明治21年に出された保安条例によって、東京からの退去を命ぜられます。つまり、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止されます。

 

これ、自由民権運動を弾圧するために出された有名な弾圧法で、尾崎行雄星亨林有造中江兆民等々の錚々たるメンバーが弾圧されてます。

 

篤太郎さん30歳の頃の話です。

 

県会議員で村会議長として地方で活躍してる人まで弾圧しちゃうんですから、専制国家ってのは恐ろしいですねー。

 

ひとつ残念なのは、自由民権運動家としての篤太郎さんが全然描かれていないことです。

 

板垣退助の演説会が篤太郎さんの地元のお寺(清源院)で盛大に開かれたことがあるので、篤太郎さんも自由民権運動家としてかなり活躍していたのだと推測されます。

 

ま、追悼集『井上篤太郎翁』が編まれたのが昭和28年なので、残念ながら自由民権運動の全体像がまだ判明してないころなんですよね。

 

つまり、神奈川・多摩地域における自由民権運動というのは、民衆の中から生まれ出た民主主義の萌芽みたいな運動で、なかなか興味深いんです。

 

そのあたりを色川大吉北村透谷を通じて掘り起こして「色川史学」と讃えられたわけですが、

 

 

色川大吉の研究成果が発表され始めたのは昭和40年前後の話です。したがって、追悼集『井上篤太郎翁』を編んだ昭和28年の関係者の皆さんは、

 

「板垣退助をはじめとした土佐閥が活躍した国会開設運動」

 

という、広がりのない視点で捉えていたのかもしれません。

 

というわけで、自由民権運動家としての篤太郎さんが全然描かれていません。そこはちょっと残念です。

 

さて、篤太郎さん、政治家を辞めます。一気に経済界に向かいます。

 

「その時分の政治運動というものは、生命も財産も捧げつくして、自由民権のために、という時代だったから、私は31、32歳の時には親から譲られた財産は大概つかってしまった。

 

こんなことをしていると師弟の教育ができなくなる。祖先に対しても相済まぬ。

 

と思ったので、ぷっつりと政界と縁を切り、実業界に踏み出すことになった」(篤太郎さんの述懐)

 

で、明治23年、32歳の時、自転車製造業を始めました。

 

続く→