明治人は気宇が違うなー、と感じることがありせんか?

 

私が最初にそれを感じたのは、大昔、通っていた木造の立派な小学校が、昔の偉人が、自身の退職金を寄付して建てたものだ、という故事を知った時です。

 

私は東京都練馬区で生まれ育ったんですが、小学校一年のちょうど2学期が始まるあたりに神奈川県厚木市の三田というところに引っ越しました。

 

シティボーイだったわたくしは、子ども心に、厚木があまりに田舎で驚きました。

 

もう一つ、とてもビックリしたのは、小学校が、木造の校舎だったことです。講堂も木造でした。

 

厚木市立三田小学校、木造でした。

 

おそらく当時、昭和46年頃の話ですが、東京23区内で木造の大きな建物というのは、もうあまり見かけなくなっていたんぢゃないかと思うんです。だから、とても印象に残ってます。

 

わかりやすくお伝えすると、今だと明治村にあるようなやつですね。重厚なやつ。

 

で、ちょうど私が転校した年か、その次の年が厚木市立三田小学校の創立100周年で、紅白の饅頭もらったり、何だり、記念行事が行われました。

 

そこで、色々、小学校の沿革とか由来とかを聞かされたんですが、さらにビックリしたのは、その木造の立派な小学校と講堂が、一人の人物の寄付金によって建てられた、ということです。

 

世の中には偉い人がいるもんだなー、と。

 

その人は、現在の京王電鉄を発展させて晩年は貴族院議員を務められた井上篤太郎という人なんですが、またまたビックリしたことに、私が引っ越した場所からすぐそこで生まれ育った人だ、と。

 

さらにさらに、私が引っ越した場所からちょっと行った所に「才戸橋」っていう橋がかかってまして、その橋も井上篤太郎さんの寄付金によって作られたんだ、と知りまして、またビックリしました。

 

すげー。

 

そーゆー人を「偉人」というのか、と。

 

具体的に紹介しましょう。

 

もう、地元の人も篤太郎さんの偉業をあんまり知らないですから。篤太郎さんの血筋の方もいるというのに。ま、「先祖は偉い」と血縁者からは言いにくいですからね。

 

篤太郎さんの具体的な話を代々地元に住んでる同級生に教えてあげると驚きやがりまして、

 

「東京から来た俺に教えられてどうすんだ?」

 

と叱っておきました(笑)

 

ちなみに、情報のネタはすべて下記の本です。篤太郎さんが亡くなったあと、有志によって刊行された追悼集です。興味のある方はどうぞ。いつも売ってる本ではないので、売ってるのを見た時に多少高くても買っておいた方がよいでしょう。

 

さて、井上篤太郎さん、生まれは、1859年、安政六年、江戸時代の末期です。

 

安政六年てーと、秋山好古が生まれた年、井伊直弼が大老に就任した翌年で「安政の大獄」によって 橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰が斬首された年です。

 

篤太郎さんのお父さん、徳太郎さん、若くして江戸に出ます。厚木のあたりは天領と小田原等の藩領が半々というか、時期によって天領だったり藩領だったりしていたようなので、比較的自由だったんでしょう。天領は、江戸時代でも比較的自由があったようですね。京都に行って新撰組を構成した人々、近藤や土方や沖田も多摩の方の天領の人々ですし。

 

が、さすがに凡庸な人間をわざわざ江戸にまでやらないでしょうから、徳太郎さん、きっと学問ができたんでしょうね。さらに、勤王の志に燃えて活動したらしいです。

 

が、志は遂げられず、江戸で妻をめとって、28歳の時に帰郷します。

 

で、篤太郎さんが生まれます。

 

そして篤太郎さん、早くも6歳にして、江戸に出て、神田和泉橋の寺子屋で学問したそうです。

 

親が江戸に出てた影響もあるでしょうし、篤太郎さん自身も出来が良かったんでしょうね。当時江戸っつったら、えらい遠いですからね。歩いて行くわけですから。

 

が、篤太郎さん9歳の時、明治維新の際の戊辰戦争であまりに世上騒然となったため、

 

「郷里あるものは、女子供を帰郷させろ」

 

という布告が幕府から出ました。

 

そのため、やむなく厚木に帰郷します。

 

で、愛川町の寺子屋に通ったり、ちょうど少し行った所に寄宿していた漢学者に習ったり何だりしながらも、やはり学問の欲求が満たされることがなかったため、16歳の春に再度東京に出ます。明治7年です。

 

その際は、医学を志して緒方洪庵の次男・緒方惟準の塾に入ってドイツ語を学びつつ、鉱山業にも野心があって、その方向の勉学もはじめていたところ、父・徳太郎が55歳で急逝します。

 

仕方なく東京での勉学を断念し、故郷で家督を継ぎました。17歳です。

 

続く→