藤田嗣治の再評価と作品の力〜労作『なぜ日本は藤田を捨てたのか?』

2018年11月16日

芸術の良いところは、作品の前にあれば、性別も、肌の色も、顔の良し悪しも、社会的地位も、生まれも育ちも、ほとんんど何もかも関係ないとこです。

 

関係あるのは、作品だけです。

 

作品が良ければ、その他のことはあまり関係なくなります。特に、時代を経ても残る作品であれば。

 

近年の藤田嗣治(レオナルド・フジタ)の日本における再評価を見て、その感慨を新たにしました。

 

藤田嗣治は、エコール・ド・パリで活躍した世界的な画家です。これ、日本人びいきの話ではなく、当時からすんごく人気があったそうで、今でも欧米の美術オークションで高い価格がつきます。

 

しかし、戦後の日本では、とても評判が悪く、情報が少なかったんです。

 

理由は、第二次世界大戦中に戦争画を書いたからです。それも、イヤイヤ書いたのではなく、気合いを入れて『アッツ島玉砕』等々の傑作を書きました。

この場合の「戦争画」というのは、自身の興味によって描くのではなく、日本陸軍の委託を受けて描いたもので、ま、プロパガンダです。

 

日本陸軍というのは敗戦によって「悪の根源」みたいなことになりましたから、ま、実際そうなんですが、そのため藤田は

 

「悪のプロパガンダを熱心に手伝った人物」

 

「ファシズムに協力した画家」

 

という烙印を押されます。

 

そのことが戦後、美術界から強い批判を受けて、日本を追放されるような形でフランスに渡ります。

 

その経緯から、藤田嗣治の25歳年下で2009年まで存命だった藤田夫人の君代さんが日本を強く恨んでおり、藤田の死後も展覧会や本に藤田の作品を発表するのを拒んでいたらしく、戦後長い間、なかなか藤田の作品や情報に充分に触れることができず、全貌がよくわからなかったわけです。

 

ぶっちゃけ、確かに藤田はスケープコードにされましたね。藤田夫人の恨みも無理のないことだと思います。ただ、それが、いまだに藤田の全容が日本人に理解されていない理由だと思いますが。

 

藤田嗣治は、若い頃から日本離れ、というか、当時の日本に色濃かった集団への同調圧力に抵抗する精神が強かったようで、それがフランスへの渡航となり、独自の画風の確立となり、エコール・ド・パリの花形となって大成功する動力になったようですが、同時に日本社会や日本人集団から浮き上がる理由にもなったようです。

 

敗戦後、戦争責任の追求が激しくなって、戦争画の人気作家であり、陸軍美術協会理事長でもあった藤田は「戦争協力者」として強く批判されます。

 

それに対し藤田は、朝日新聞紙上で

 

「画家は本来平和愛好家で、たまたま戦争がおこったから、戦争画を描いて国民としての義務をはたしたまでで、平和になったら平和を描くのがなぜ悪いか」

 

という論法で反論しました。参照『戦後美術盛衰史』針生一郎 著

 

当時、敗戦直後、戦争への怒りや憤懣に満ちている時勢で上記のような言葉を投げかけることが多くの反発を生むであろうことは容易に想像できます。それをあえて投げかけるのが、藤田の同調圧力に抵抗する精神でしょうね。

 

実際、美術界から強い反発が起こったわけです。

 

例えば、藤田の息子くらいの歳で、いわゆる「戦後派」として当時の美術界に若く新しくみずみずしい風を吹き込んだ針生一郎は、後年以下のように批判しています。参照『戦後美術盛衰史』針生一郎 著

 

「こういう藤田嗣治の文章について、戦争画家としての責任を「全ての国民」と「軍官の誤り」に転嫁し、戦争責任と敗戦責任をすりかえ、坊主丸懺悔を説くごまかしと自己合理化を責めてもはじまらない。魂をまるごと悪魔に売り渡してしまえば、どんな条件のもとでも「表現の自由」をみいだすことに欠かないものに、もともと「節操」などはるはずがないからだ。」

 

「腕達者な描写技術を条件として、画壇全体が国家権力に身売りしていた事実であり、その不具な職人根性と特権的身分意識が、敗戦後もそのまま続いていた」

 

ま、当時の人々のある種の怒りがよくわかる文章ですが、ただ、やっぱり藤田はスケープコードにされてる感じはありますね。今から見ると。「無理難題をふっかけてる」っていう感じがします。

 

戦前の軍はナチスとは違い、明確な差別意識とか、明確に悪魔的な言説はしてないんですね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、とりあえず理想論と美辞麗句で彩られているわけです。

 

ですから「魂をまるごと悪魔に売り渡して」しまうような自覚というのは、なかなか持ちようがなかったでしょう。針生自身、戦前は仙台の二高の右翼学生として、「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」のために活動していたわけです。

 

また、「腕達者な描写技術を条件として」とありますが、画家ってのはそーゆーもんですよね。

 

さらに「画壇全体が国家権力に身売りしていた事実」と言っても、国が作品を買ってくれるんならそんなにステキなことはないですよね。支払いが滞ることもないし、焦げ付くこともないし、自営業者にはありがたいことです。

 

つまり針生は、古くさい技術ではなく、キュビズムとかシュールレアリスムとかの当時の新しい現代的な技法で、国家の制約を離れて精神の自由を獲得して描かなくてはならない、ということを言ってるんでしょうが、そーれは無理難題ですよね。

 

「国家の制約を離れて」「精神の自由を獲得して」制作すれば傑作が生まれるという科学的証明があったわけでもないですし、ある個人が「国家の制約を離れて」「精神の自由を獲得して」いるかどうか、外面だけではわからないですわね。

 

一方で、藤田嗣治は実際に数々の傑作を生んできてるわけです。そもそも渡仏した最初の頃にピカソのアトリエを訪ねて衝撃を受け、キュビズムとかシュールレアリスムとは違う独自の表現を追求して傑作を描いたわけですから、針生の批判は根拠のない、政治的な意味しかない「無理難題」ですね。

 

言い換えますと、ある画家が、国や軍に「戦争記録画を描け」と命令されて従ったのが悪いなら、ある人が、国や軍に「戦争に行け」と命令されて従ったのも悪いんですかね?ある寺が、国や軍に「金属がなくなったから梵鐘を供出しろ」と命令されて従ったのも悪いんですかね?

 

なんか弱いですよね。戦争責任追及のロジックがすごく弱いです。

 

と同時に、藤田は軍医の息子です。それも普通の軍医ではなく、森鴎外の後任として陸軍最高位の軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物です。

 

さらに、兄の嫁の父が陸軍大将の児玉源太郎、日露戦争の満州軍総参謀長として高名ですね、妹の夫が陸軍軍医総監の中村緑野と、陸軍一家なわけです。

 

ですから、「陸軍に協力するな」という方が難しいですよ。

 

ただ「戦後」というのは難しい時代で、その頃のチグハグさを日本は今も引きずっていると思いますが、その理由は、ヘンな話ですが、ちゃんと戦争に負けてないからではないでしょうか。

 

若者は出兵して死に、空襲はたくさんあって大変でしたが、連合軍が上陸しての陸上戦は沖縄以外行われなかったので、生の、本来の意味での戦争は日本の民衆の前では行われなかったわけです。

 

愚かな者達が国の舵を取った結果に何が起こるか、ということを、民衆は、陸上戦として実感しておらず、全体の共通認識として持ってないような気がします。

 

「爆弾が降って火事が起こる」とか「食べるモノがなくて腹が減ってた」とか、そーゆー実感はありますが、例えば、敗戦は8月ですが、連合軍は11月に日本本土上陸作戦を予定していて、最初に鹿児島の志布志湾一帯、次に神奈川の湘南海岸と千葉の九十九里海岸に大規模な上陸作戦を行う予定でした。この上陸作戦がもし行われていれば、日本の民衆はそこで戦争の本当の姿を知ったでしょう。

 

そうなることによって、日本の民衆にコンセンサスが発生し、敗戦後、本当の戦争責任の追及が始まったでしょう。

 

一方で、関東軍参謀だった辻政信とか瀬島龍三とか、満州国高官で東條英機内閣の商工大臣だった岸信介とか、「戦争責任」を問うのなら本来問われるべき人々が、議員になったり総理大臣になったりして戦後日本社会で活躍してるわけです。いや彼らに「戦争責任がある」と言ってるんじゃなく、戦争責任について考えるのなら、藤田なんかではなく、彼らが考えるべき、彼らに尋ねるべき、という意味ですが。

 

つまり、日本人自身による第二次大戦後の戦争責任の追及というのは、なんか、こー、抽象的で、空理空論で、フラフラしてて、公平性がなくて、弱いんですよね。コンセンサスがなくて、別々のことを言い合ってるような。

 

で、藤田嗣治もそれに巻き込まれました。

 

昭和22年(1947)に日本美術会書記長の画家・内田巌が藤田を訪問し、

 

「貴下を戦犯画家に指名する。今後、美術界での活動は自粛されたい」

 

という日本美術会の決議を突きつけた、と言われています。日本美術会というのは日本共産党の影響下にあった団体です。当時の日本共産党は、戦争に反対し続けた稀少な集団として、今では考えられないほど支持が高く、人気があり、発言力がありました。

 

内田巌は、藤田のよく知る後輩で、新制作派協会の創立会員です。フランスでも面倒を見て、よく一緒に酒を飲んだ間柄だそうです。

 

その後輩が、よくもそんなことを言えたものだ、と、藤田君代夫人は怒り、頻繁に取材に来ていた毎日新聞記者の船戸洪吉に憤懣をぶつけ、それが記事になって多くの人が知ることになりました。

 

しかし、実際の情景は少し異なるようです。

 

さて、このような藤田の戦争画と戦後についての誤解や誤りを一気に晴らしてくれた本がありました。長年の疑問を氷解させている大変な労作で、戦後、藤田が日本を出国した事情も詳しく記されています。富田芳和 著『なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治とフランク・シャーマン』(以下「本書」と記します)です。

 

同書によると、内田巌は、藤田にお願いに来たようです。GHQが日本画壇の戦争責任を追及する恐れがあるため、その責任をかぶってくれないだろうか、と、内田は藤田に、ある種丁重に頼んだ、というのが実情みたいです。

 

しかし、藤田はGHQと密接に通じており、というか、GHQの意向で日本の芸術家をバックアップしているフランク・シャーマンという人物がいて、彼はパリの寵児だった頃の藤田を知る熱烈なファンでした。そのため、特に藤田を熱心にバックアップし、言わば兄事していました。

 

そればかりか、藤田は連合国最高司令官マッカーサーの夫人ジーンに依頼を受けてクリスマスカードを作り、もともと藤田のファンだったジーンはクリスマスカードを大変気に入り、GHQのエデュケーショナルセンターでキュビズムに関する講義を開いてもらったりで、どちらかというと厚遇を受けてました。

 

したがって、GHQによる日本の芸術家への戦争責任追求は行われない、ということを、藤田はよく知っていました。

 

そして、もう一つ、当日、内田はもっと重要なことを伝えているそうです。実は、それこそが藤田を落胆させ、日本を出国した理由の大きな一つだった、と。

 

新制作協会創立会員である内田巌は、新制作協会の総意として藤田の入会を拒絶する、ということを伝えたそうです。

 

内田の来訪から2年後(昭和24年)、藤田は、日本を永遠に去る際に羽田空港で記者会見を行いました。その様子を、針生一郎は、以下のように記しています。『戦後美術盛衰史』針生一郎 著

 

「追い詰められた藤田は逃避行の末、49年3月、アメリカに旅立った。「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかはしないでください。日本画壇は早く世界的水準に達してください」と、精いっぱいの皮肉をこめたすてぜりふを記者会見で残して」

 

これが、ま、当時の多くの人々の認識であり、したがって後の世代の私なんかもそう思ってました。おそらく毎日新聞の記者だった船戸洪吉の記事の影響だと思いますが、実はそうじゃない、と本書が明らかにしてくれました。

 

針生が「追い詰められた藤田」と記したのは、「戦争責任の追及」という文脈で記しているんですが、藤田はそんなことは全く気にしていなかったようです。

 

本稿の最初で記したように、藤田の描いた戦争画で有名なものに「アッツ島玉砕」という作品があります。これです↓

この作品、まるで陸軍省委託の作品とは思えませんね。戦争のステキな面を切り取っているわけではなく、どちらかと言うと、鎮魂を思わせます。ま、実際は陸軍に委託されたのではなくて、藤田が描いてから献納されたんだそうですが。

 

藤田は、日本国内はもとより、どうも海外での鑑賞まで射程に入れいていて、ドラクロアが描いたような後世の鑑賞にたえる、質の高い戦争画を目指していたようです。

 

ですから、戦争画を描いたことに悔いは無いし、反省をしたこともなく、どちらかと言うと作品の質に自信を持っていて、GHQと組んで米国で日本の戦争画の展覧会を行うことさえ考えていた、と。

 

したがって、戦争責任の追及に追い詰められた、ということは全くありません。

 

追い詰められたのは、仲間たちの拒絶や画壇の政治的動きに依って、だったようです。

 

昭和14年、欧州の状況が悪化し、パリがドイツ軍に占領される前に仕方なく日本に帰国した藤田は、画家としては少し後輩にあたる新制作協会の人々と親しくしていました。

 

新制作協会(発足時は新制作派協会)というのは、昭和11年、反官・反アカデミズムの旗印のもとに猪熊弦一郎、脇田和、佐藤敬、内田巌、小磯良平ら青年画家9人が立ち上げた画家の団体です。現在でも存続して活動しています。

 

猪熊弦一郎や佐藤敬や内田巌はフランスへの留学歴があり、その際、藤田と親交を結んでいます。

 

で、昭和19年に藤田は、神奈川県の藤野(当時はおそらく吉野町、旧藤野町、現在は相模原市)に疎開したんですが、藤田が声をかけた結果、画家達が多く疎開するようになります。猪熊弦一郎、脇田和、佐藤敬等、新制作協会の方々が多かったようです。

 

この藤野で、敗戦までの1年間、地元の人々と交流したり、子供たちに絵を教えたりといった牧歌的な生活をしながら、一方で藤田は新制作協会の作家たちと議論を戦わせたりして、次の時代の到来を待っていたようです。

 

つまり、内田厳が、新制作協会の総意として藤田の入会を拒絶した、というのは、フランス時代からの世話をしていた後輩、苦しい時代に一緒に疎開をして暮らした仲間たちから藤田は拒絶された、という意味なんですね。

 

そら、ま、新制作の人々にも言い分はあるでしょうし、内田巌も藤田の面前で泣きながら苦衷を吐露したそうですが、藤田から見ればショックでしょうね。すごくショックでしょう。

 

藤田を拒絶したい、排除したかった集団は、他にも多くあったようです。

 

例えば昭和19年の夏に「美校クーデター」という事件が起きたそうです。「美校」とは、東京美術学校、いまの東京芸術大学美術学部ですが、ここで戦争画を描いていた教師たちが一斉に辞めさせられて、その後任に岡倉天心が創立した日本美術院に近いか、もしくはモダニズムから遠い人々が座ります。具体的には、小林古径、安田靫彦、安井曾太郎、梅原龍三郎で、その背後には侯爵・細川護立、日本美術院の横山大観がいたようです。

 

これはおそらく、細川護立や横山大観が敗戦をにらんで次の時代に備える布石だったんでしょうが、彼らにとっても藤田は拒絶すべき対象だったようです。

 

当時、藤田はスーパースターで、しかも他の日本人画家が持っていない国際的な名声がありました。

 

戦前から戦後当時、藤田という画家は子供から老人まで知ってるスーパースターで、そのため先述の毎日新聞記者・船戸洪吉も頻繁に戦後の藤田宅を取材してたわけですね。記事にすると新聞が売れるほどの存在だった、と。

 

また、小林古径も安田靫彦も安井曾太郎も梅原龍三郎も横山大観も、画家としては当時も今も国内的な存在で国際的には通用しませんから、国際的に通用する藤田が目障りで、特に藤田が画壇で権力を握ることを防ぎたかったのかもしれません。

 

その藤田が、「戦争画を描いた」という批判に正面から反論して強い反発を買ったわけです。その機を捉えて、色々な勢力が藤田の排除に動いたみたいです。

 

あまり政治的な才能がなく、技芸の競い合いが好きな職人肌の藤田は、そんなこんなで絶望し、日本を脱出した、というのが真相のようです。

 

ただし、それは従来言われているような「追放」というニュアンスではなく、藤田側から見ると「世界市場への再挑戦」のようなニュアンスだったみたいです。考えてみれば、当時、日本人が外国へ行くのに、ものすごい制限のかかっている時代ですから、外国へ行くことだけでもスゴイことだったわけですね。

 

つまり、藤田離日の際、羽田空港の記者会見で語った

 

「絵描きは絵だけを描いてください。

仲間喧嘩はしないでください。

日本の画壇は早く世界的水準になってください。」

 

という言葉は、針生が記したような「精いっぱいの皮肉をこめたすてぜりふ」ではなく、藤田の心からの絶望、日本画壇への嫌悪を表出していたんです。

 

本書によれば、文芸評論家の保田與重郎は、昭和43年に刊行した著書の中で以下のように記したそうです。

 

「今度の戦争のあとで、藤田嗣治画伯をフランスへ追いやったことは、わが画壇の一部にその責任があると風聞されているが、同時代人として、これほどみじめで恥ずかしい話はない。

 

芸術家の陥りやすい弊害、それゆえに最も警(いまし)むべき悪徳は、羨望嫉妬である。名声に対する複雑な欲望と、それに達成しようとする浅はかなたくらみである」

 

さらに本書によれば、「藤田の離日を、本人ではなく日本の芸術家の責任だとする視点は、保田の言葉以外今日に至るまで見当たらない」そうです。

 

保田與重郎という人は、特に戦前活躍した右派の論客で、日本浪漫派の中心人物です。わかりやすく言うと、近代批判と古代賛歌を基本として、大東亜戦争を正当化して扇動した人だと言われています。そのため、戦後は多くの批判にさらされて、活動が制約されました。

 

一方、本稿で何回か引用した『戦後美術盛衰史』を記した針生一郎は、戦前日本浪漫派、特に保田與重郎に傾倒していて、保田の影響を受けて大学は国文科を選んだほどでした。しかし、敗戦と共にそれを乗り越えるために左派へ転向した人です。戦後派として頭角をあらわし、新左翼の論客、反権威的な美術評論家・文芸評論家、また芸術運動のプランナーとして活躍しました。

 

戦前活躍した保田に真実が見えて、戦後活躍した針生に真実が見えなかった、というのは、何か興味深いです。

 

さて、そんなわけで誤解と偏見から戦後の日本社会で非常に評判の悪かった藤田ですが、2009年に君代夫人が亡くなって藤田の情報に比較的自由にアクセスできるようになり、再評価が始まりました。

 

で、藤田の作品をジックリ見ると、やっぱ素晴らしいんですね。安井曾太郎や梅原龍三郎のようなモノマネじゃないんです。オリジナルなんです。

 

さすがだな、と。

 

さすがにエコール・ド・パリの寵児になっただけあるな、と。私も思いましたし、多くの皆さんも感じたことだと思います。それが近年の再評価につながっているのでしょう。

 

芸術の良いところは、作品の前にあれば、性別も、肌の色も、顔の良し悪しも、社会的地位も、生まれも育ちも、ほとんんど何もかも関係ないとこです。

 

関係あるのは、作品だけです。

 

作品が良ければ、その他のことはあまり関係なくなります。特に、時代を経ても残る作品であれば。

 

藤田の素晴らしい作品が、それを物語っています。

 

 

 

 

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Posted by hirooka